ミスティック・リバー

hj3s-kzu2004-01-29

a)『ミスティック・リバー』(クリント・イーストウッド

a) この作品については、蓮實重彦をはじめとする錚々たる論者によってすでに多くのことが語られていて、そのうちのいくつかには教えられることがあった(特にnobodyのサイトの角井誠氏の評は冴えているので必読)。よってこの傑作について付けくわえるべきことはほとんどない。しかも青山真治氏が「名前のない日記」(1/20付)で「たとえば『ミスティック・リバー』について語る時、イーストウッドが掴んだものをスタッフ、キャストの誰も掴んでいない状況があの作品の現場だった、という視点なしにあの作品を特集する意味があるとは思えない。困難なことを要求しているかもしれないが、その困難はイーストウッドの抱えた困難でもある。そこに同調せずに自説を披露するのは、ネットの日記にでも任せておけばいい。」と書いている以上、数多くある「ネットの日記」の一つに過ぎない当日記は口を噤んでいるのが得策というものだ(ただ青山氏がその文章を書き付けている場所もまた「ネットの日記」に過ぎないことを氏は忘れてはいないか。とはいえ12/1付の日記に書かれていた氏のこの作品への短いコメントは鋭い)。しかし何も書かないのも癪なので、一応主要な批評と「ネットの日記」を一通り目を通した上で、それらの論者が書き忘れていることを若干補足して、この作品の感想の代わりとしたい(ただしこれを書いている時点で「InterCommunication」の最新号はまだ発売されていないので、そこに載るはずの青山氏のこの作品に対する評は未読)。ただ「ネットの日記」の多くが、この作品について「アカデミー賞」やら「9.11後におけるアメリカ」といった話題との絡みでこの作品について語っているのには唖然とした。そんなことどうだっていいではないか。イーストウッドはもうかなり以前から「アカデミー賞」などといった業界的な評価を遥かに超えた傑作群を次々に映画史に刻印しつづけているわけだし、「9.11後におけるアメリカ」など、例えばコッポラの『地獄の黙示録』を現在、「ヴェトナム戦争後のアメリカ」といったテーマで語るものが誰もいないように、この傑作をそういったアレゴリーで解釈して納得した気になってしまうのは、たとえイーストウッド本人がそういった解釈の余地を残していたとしても、それではこの作品も見たことにはならないとだけ言っておこう。
さて、この映画でショーン・ペンの娘が殺されたことを私たちが知らされた時のことを思い出してみよう。私たちは、ヘリからの俯瞰ショットによって、数分前にスクリーンで目にしたばかりの彼女が乗っていた黒いうす汚れた車がパトカーに取り囲まれているのを目にし、それと同時に事件のことを警察に通報する電話のやり取りを耳にしている(この電話が事件の解決の決定的な糸口になるのだが、私たちはそれを耳にしているにもかかわらず、その重要性を理解するのは遥か後になってからである)。その瞬間、私たちは彼女が事件に巻き込まれ、おそらくは殺されてしまったことを直感する。しかしこの時点では刑事のケヴィン・ベーコンも彼女の父親であるショーン・ペンもそのことを知ってはいない。そこで、彼らがその事実を知るまでの経過が通常の説話的経済に比べてかなり丁寧に描写されていることに気づく。この情報の「遅延」、ここでは、観客−ケヴィン・ベーコンショーン・ペンの順にその情報が伝達されるわけだが、物語の冒頭においては、わずかの差だったこの遅れが、物語が展開していくに従ってその差とベクトル(初めはベーコンもペンも同じ方向を向いていたわけだが、ある時点における「誤認」のために両者は別の方向に逸れていってしまう)が開いていき、ついには修正不可能な時点にまで達したときに災厄が訪れる。
『ダーティーハリー』(ドン・シーゲル)における「十字架」の説話的機能に最初に着目したのは、私の知る限り万田邦敏氏であるが、この主題がシーゲルからイーストウッドに受け継がれていることは、彼の作品を見続けてきている者なら誰でも知っていよう。実際、この作品においてティム・ロビンスに訪れる災厄は「吸血鬼の受難」とでも名付けられるようなものである。吸血鬼=ティム・ロビンスを迫害する者たちは、ある者は指輪として(少年時代に彼を誘拐した男)、ある者は壁に架けたキリスト像として(彼の妻のマーシャ・ゲイ・ハーデン)、またある者は背中の刺青として(ショーン・ペン)、「十字架」を身に付けているか、身の回りに配している。ただ、この「吸血鬼」という言葉が最初に呟かれる場面において、ティム・ロビンスがテレビで見ているのが、『ヴァンパイア/最期の聖戦』(ジョン・カーペンター)であるという点は興味深い。というのもイーストウッドと並ぶもう一人の現代アメリカ映画の巨匠であるこの映画作家の吸血鬼映画において、吸血鬼は十字架を恐れるどころか、むしろそれを永遠の命のために手に入れようとしているからである。ともあれ『ミスティック・リバー』において、十字架は不吉な兆しであり、それが画面に表れる時にはその前後のカットで重大な説話的変化が生じている。一番、決定的なのは、サヴェッジ兄弟が娘の墓石を選んでいるショーン・ペンティム・ロビンスへの疑惑を伝える場面なのだが、どこに十字架が映っているかは各自の目で確かめてもらいたい。
またこの作品においても他のイーストウッドの諸作のように、奇妙な「見た目ショット」がいくつか出てくる。例えば冒頭、ショーン・ペンの娘が通りを渡って自分の車に乗り込むまでを捉えたパン・ショット。これはその後のカットの繋がりから、一見、彼女のボーイフレンドの主観ショットのようだが、それにしてはキャメラ位置が彼の座っている位置とは左右逆である。また何度か出てくる夕暮れの川の上を滑走するショット。そして最後にそれぞれ徹夜明けのショーン・ペンケヴィン・ベーコンが並んで通りの向こうを見やると25年前に車で誘拐されていく少年が後部座席から彼らを悲しそうに見つめて遠ざかっていく切り返しショットが繋がれ、その後、その少年の「見た目ショット」であるかのように再び後退移動を伴って二人にカットバックされるあのショット。25年前、すでに一度ロビンスは死んでいて、つい先ほどまで彼らと言葉を交わしていたあのどこか希薄な佇まい(それは舗道に刻まれたが途中で中断された彼の名前のように頼りなげだ)の男はその「亡霊」のさらにその影といったもの(あるいは彼自身の言葉を使えば「吸血鬼」)なのだったとすれば、この最後の「見た目ショット」が「亡霊」の主観ショットであるのと同様に、最初のペンの娘を見ている眼差しもやはり「亡霊」のものなのだろう(そのキャメラ位置はあの少年が誘拐された時に座っていた位置とほぼ同一である)。
ペンの娘の死を登場人物の誰よりも早く見、同時に全てを聞いていたにもかかわらず、無力な傍観者であったように、私たちは「吸血鬼の受難」をただなすすべもなく見ているしかない。にもかかわらず私たちはそれに目を背けてはいけないし、性急な判断を下すべきでもない。目を開き、耳をそばだてて、画面に生起している出来事に立ち会うこと。それはどこかあのヴェンダースの無力な天使たちの振舞いに似ているが、仮にイーストウッドが要請する「倫理」というものがあるとすればそのようなものではないだろうか。


ミスティック・リバー 特別版 〈2枚組〉


発売日 2004/07/09
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