蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.7

本日は青山ブックセンター本店に「蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.7」を聞きに行く。
蓮實重彦の批評を時代遅れとみなして乗り越えた気になっている論者がたまにいるが、それは大きな勘違いである。彼の開いたパースペクティヴを超えるものは現在の日本において未だ現れていないし、そういった論者は大抵の場合、彼以前の水準にとどまっている。
さてこのトークショー、無料なのだが、内容は濃い。私も十数年前、東大での彼のゼミに出席していた人間だが、レベルとしては教養課程の大人数向けの講義と専門課程の少人数向けのゼミの中間くらいの内容である。こうしたものを定期的にしかも無料で行っているのは、おそらく彼が実作・批評の両面において本気で若い人材を育てよう、あるいは晩年の淀川さんのように「映画の魂」を伝えようと思っているということなのではないか。
今回のテーマは「日本映画における視線の交錯、そしてその回避」である。去年の小津シンポでの黒沢清の発言「日本家屋でローアングルで撮ろうとすると、どうしても小津になっちゃう」を受けて、まず『降霊』における該当箇所の抜粋から始まり、デヴィッド・ボードウェルらが、小津の「交わらない視線」を「ハリウッド的表象システム」(その代表例として「180度の規則」、イマジナリーラインの一致)に対して批判的な距離を取ったものだとみなしていることへの反証を試みる。まず小津の「視線の交錯」を『小早川家の秋』からの抜粋で確認する。松竹を離れて撮られたこの作品には、対話する二人の人物を一方の斜め後ろの軸からのツーショットで捉えた珍しい画面が見られる。ところでイマジナリーラインの一致は「共感」も「反発」も表現できてしまう。古典ハリウッド映画における前者の例として『牧童と貴婦人』(ヘンリー・C・ポッター)のゲイリー・クーパーマール・オベロンの夜霧につつまれた船上での抱擁のシーン(マール・オベロンの顔に落ちる繊細な影が素晴らしい)、後者の例、それも律儀にカットバックを繰り返したために官僚的な演出になってしまった『孔雀夫人』(ウィリアム・ワイラー)の口論のシーンを映写した後、だが世界映画の文脈においては「180度の規則」なるものはそもそも存在しないし、ハリウッド映画内部においてもそれは必ずしも守られていないと氏は高らかに宣言する。前者の例として『父は正しかった』(サッシャ・ギトリ)、後者の例として『スコットランドのメアリー』(ジョン・フォード)のそれぞれ二人の人物の切り返しショットで構成された対話場面を見せる。「180度の規則」などというものは守ったからといって、ワイラーのような凡庸さにしか行き着かない。ではその凡庸さをいかにして避けるか。小津のような不条理なまでのカットバックの他に、そもそも二人の人物が見つめあっている時にあえて、その両者を交互に見せない方法があり、その世界的な代表例として溝口健二、またその「視線の回避」の80年代日本映画における体現者として相米慎二を挙げる。
溝口の『近松物語』、『お遊さま』、『山椒大夫』のそれぞれ充実した、いずれも宮川一夫のキャメラによる長回しの画面を見ながら、画面が充実していればそれを割る必要などないこと、にもかかわらず当時の日本ではこの長回しが「かったるい」ものとされ正当に評価されていなかったことなどが述懐される(『第三の男』(キャロル・リード)のようなモンタージュが当時はもてはやされていた)。
次に、70年代の神代辰巳を飛び越えて80年代の相米に話は飛ぶ。彼の90年代の傑作『お引っ越し』は北野武の『ソナチネ』と同じ年に撮られ、北野への世界的な注目の影に隠れてしまったのだが、ここで彼に言及するのは相米追悼の意が込められているのだろう(事実、トークショーの最後に海外の雑誌に発表された氏による追悼文が配付された)。『魚影の群れ』、『台風クラブ』の抜粋を見た後、溝口と違って相米は審美的な面においては完璧性を求めず、手近かなものでその場・その時にしか生起しない一回性の出来事をフィルムに収めたことが語られ、ではそれを「活劇」でやったらどうなるかの例として、『ションベンライダー』のあの忘れがたい場面、すなわち水が横溢する木場でのピストルが誰に向けられていて、誰が誰から逃げているのかがもはや定かではない、「説話的には全く不経済な」あの充実した画面を上映して今回のトークショーは終わった。

(追記)蓮實氏のボードウェルに対する評価は『映画狂人シネマ事典』にボードウェルの書物への書評という形で表明されている。