あなたの隠された微笑はどこにあるの?/放蕩息子の帰還

hj3s-kzu2004-02-01

a)『あなたの隠された微笑はどこにあるの?』(ペドロ・コスタ
b)『放蕩息子の帰還』(ストローブ=ユイレ

a)この映画については、「nobody」11号を参照されたし。そこにペドロ・コスタと協力者のティエリー・ルナスへの充実したインタビューが掲載されている。この雑誌、個人的には映画批評誌としては「ウ〜ン」という感じなのだが、何故かペドロ・コスタへのインタビューは毎回充実していて、ついつい買ってしまう。以前、ある方からお借りしたこの作品のビデオには字幕が付いていなかったので、私の酷いフランス語の能力では細かい内容までは理解が行き届かなかったのだが、今回、英語字幕が付いているプリントを見て、こんなに面白いこと言っていたんだ!と再確認した。
映画のほとんどの場面は、『シチリア!』の別ヴァージョンを編集中のストローブとユイレのやり取りを据えっぱなしのキャメラで彼らの背後から捉えたもので、そこに二人の議論の的となっている『シチリア!』の何度も編集卓の上で繰り返しスローで再生されたり、巻き戻されたりする画面が挿入される。一コマの違いをめぐって二人の間で意見が別れ、ストローブが長々と自説を述べようとすると、ユイレが「黙って!」と怒鳴り、ストローブがしゅんとして廊下に何度もタバコを吸いに行く。ドアの向こうで彼が鼻歌を歌い、ドアから顔を覗かせて「これって溝口の映画の最後なんだけど覚えてる?」(おそらく『山椒大夫』のラストに流れる曲ではなかろうか)などというあたり、おちゃめな一面が見れたりする。
ペドロ・コスタは来日した時に「映画には秘密はない」という決めゼリフを残していったが、私たちはしかし、この作品によって、ストローブとユイレの映画作りの秘密の一端を目にすることができる。実際、ストローブが語る言葉は映画作りを志すものにとって豊かな助言に満ちていて、しかもその実例が画面として示されている。その意味でこの映画は真の意味での「教育映画」である。
しかしまた一方この映画は「愛の物語」でもある。『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』でバッハの演奏を背後から捉える長回しの画面が、実はバッハを見つめる妻の視線に重なっていたように、二人にあっても「愛」とは「背後から見つめること」、すなわち一方の編集作業を時に怒鳴られながらも、もう一方がやや離れたところから見つめることなのである。ラスト近く、ふいにストローブが1954年に初めてユイレに出会った時のことを語り出す。最初、彼は彼女を遠くから見つめるだけだったのだが、やがて二人は恋に落ちる。その話を彼がしている間、ユイレは黙々と片付けをしている。ある時友人が不思議がって、よく彼女の話が理解できるなと尋ねたという話をストローブがすると、「で実際あなたは理解していたの?」とユイレが質問する。「それが謎なんだな!」と彼は答える。
完成した『シチリア』を上映しているホールの外から、ドアについた丸窓から二人が中の様子を窺い、ユイレはドア脇の階段を上って姿が見えなくなる。ストローブはそのまま階段に腰掛け、頭を抱え、やがてホールから流れてくる旋律にあわせて、指で拍子を取る。曲が終わり、彼の指も動きを止める。この美しいカットでこの作品は終わる。
b)英語字幕を追うというのも、それほど楽な作業ではないのだが、この作品はイタリア語で話され、フランス語字幕の作品である。したがって物語の内容にまで立ち入ったことは書けない。
この作品が前作『労働者たち、農民たち』の続編だということは知っていたが、冒頭の白画面でのヴァーレーズの曲の演奏が終わった後、『労働者たち、農民たち』からの抜粋から始まったのにはさすがに驚いた。最初のショットは前作にはないクローズアップだと思ったが、次のショットから多少編集を変えてあるのかも知れないが、見覚えのある画面がほぼ十分間続く。その後、見たことのない画面が始まったのでちょっとホッとした。彼ら自身が実際、どういう意図でこうしたのかは分からないが、例えば『大菩薩峠』三部作(三隅研次森一生)のようなシリーズ物で前回までのあらすじを最初の十分で語ってしまう、あのようなやり方を連想した(全く的外れかもしれないが)。
『労働者たち、農民たち』は大好きな作品で何度も見ているが(もちろん彼らの他の全ての作品も同様)、この『放蕩息子の帰還』はちょっとそれに較べるとやや弱いような印象を見ている間に感じた。『労働者たち、農民たち』を最初に見た時は無字幕であったにもかかわらず、自分では内容を理解し得ないイタリア語の豊かな響きに圧倒されっぱなしだったのだが、今回はフランス語字幕を追おうとして画面に対する注意力が散漫になってしまったためであろうか、あのように言葉が迫ってくるような感じはなかった(この点については、来週、日本語同時通訳付きで再び上映されるので、もう一度確かめてみたい)。
さて最初の十分を過ぎて、最初に私たちが目にするのは、森の小道を二人の男が会話をしながらやってくるのを捉えた縦の構図の画面である。ほぼ同じ画面が確か三度続くのだが、ここでの彼らはロメール以上に大胆さである。そこで気づくことは、前作が自由間接話法で書かれたテクストを俳優たちが読み上げていくという形式をとっていたのに対し、この作品では同じ原作を使いながら直接話法、つまり俳優たちが通常の劇映画のように会話形式で向かい合って話をしていることである。このためか、やや俳優の演技の弱さが露呈してしまったような気がしないでもないが、この点に関しても判断は保留しておきたい。
あと残念だったのは、『シチリア!』、『労働者たち、農民たち』に続けてメインで出ていたあの恰幅のよいおばさん(名前をしらないので)がこの作品には姿を見せていないことだろう。何か物足りない気がしていて、後でこの点に思い当たった。その理由が物語上のものなのかどうかは不明。
できればやはり日本語字幕付きで見てみないと、この作品を正しく評価するのは難しい。もちろん同時通訳が付けば内容は分かるが、その反面、この作品の音響の豊かさを削ぐことにもなる。ともあれもう一度見に行かねば。

(追記)2/6に再びこれらの作品を見たので、そちらの日記も参照のこと。