エンマ・ツンツ

a)『エンマ・ツンツ』(ブノワ・ジャコー

a) ホイヘ・ルイス・ボルヘスの同名短編をテレビ向けに映画化したもの(日本未公開)。もしボルヘスのこの小説をまだお読みでなければ、今すぐ手にとることをお勧めする(『不死の人』所収)。原作は、父の自殺の知らせの手紙を受け取った少女が、父を裏切った工場主に復讐するまでの一日を乾いた簡潔な文体で描写した傑作である。映画は原作にほぼ忠実で、原作からの抜粋がナレーションでヒロインによって語られる。ヒロインを演じているのはジュディット・ゴドレーシュで『デザンシャンテ』(ブノワ・ジャコー)に続いての出演である。ボルヘス原作の映画というのは調べてみたら20作品ほど作られているが、日本で公開されているのは、『暗殺のオペラ』(ベルナルド・ベルトルッチ)と『デス&コンパス』(アレックス・コックス)だけだ。前者が映画史に残る傑作であるのに反し、後者が駄作になってしまったのは、ボルヘス=迷宮という固定観念に引きずられて、原作をファンタジー的に処理しようとしてしまったせいではないか。アレックス・コックスは比較的好きな作家ではあるのだが、「死とコンパス」(『伝奇集』所収)が原作のこの作品はひたすらけたたましいだけの映画で見ていて辟易した覚えがある。ボルヘスの映画化に相応しいのは40年代ハリウッドのモノクロ映画、特にフィルム・ノワールの視覚的スタイルではないだろうか。ロバート・アルドリッチオットー・プレミンジャーフリッツ・ラングによるボルヘス原作のフィルム・ノワール(主演はもちろんダナ・アンドリュース!)などというものをつい夢想してしまう。
さてこの『エンマ・ツンツ』(ヒロインの名前で、劇中では「ズンス」と発音される)だが、そんなに悪くはない。しかし原作の持つある種のサスペンス(それはヒロインが何を考えているのかが、叙述からは先読みできないことから生じる)が、反復される銃口のショットによって結末が予め見えてしまうことで、削がれてしまっている。またナレーションも要らない。少なくとも、語られたことがそのまま画面に生起する、トリュフォーオリヴェイラが使うようなナレーションの手法はこの作品には似つかわしくないだろう。むしろ状況音とセリフだけに切り詰めて、ヒロインの内面を表現したほうがよかったのではないか(完全犯罪を実行するヒロインの冷静さは狂気に通じるものがある)。しかしこの映画に美点が全くないかというとそんなことはない。それは原作にないちょっとした細部で、説話的にもほとんど機能していないような場面なのだが、エンマが女友達と一緒に埠頭を歩いていると、彼女の真っ赤なベレー帽が風に飛ばされ、それをすかさずすれ違った水夫がキャッチするというワンカットがあり、そこでのベレー帽の印象的な赤とそれが宙を舞う運動感と水夫の動物的な反射神経とが相俟って素晴らしいシーンになっていた。なおこの赤は全編が押さえたトーンで統一されているこの作品中にあって一際目立つ色彩で、他に唯一この色彩が使われている工場主の部屋のカーテンと共鳴しあっている。


不死の人

ホルヘ・ルイス・ボルヘス , 土岐 恒二

発売日 1996/08
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