あなたの隠された微笑はどこにあるの?/放蕩息子の帰還

hj3s-kzu2004-02-06

a)『あなたの隠された微笑はどこにあるの?』(ペドロ・コスタ
b)『放蕩息子の帰還』(ストローブ=ユイレ

a) この作品については2/1の日記を参照のこと。特に付け加えることはない。ただここで声を大にしていいたいのだが、私たちはこの素晴らしいフィルムを撮ってくれたペドロ・コスタに感謝しなくてはならない。たとえストローブ=ユイレがこの地上から姿を消してしまったとしても(そんな日が来て欲しくはないが)、私たちはこの偉大な映画作家たちの声や身振り、そしてユーモアややさしさ、さらには怒りを目にし耳にすることができるのだから。この映画は『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(ヴィム・ヴェンダース)と同じくらい、ことによるとそれ以上に重要な映画であり、三つの孤独な魂の出会いのドキュメントである。最後のカットで涙があふれてくるのを止めることはできなかった。ありがとうコスタ。ありがとうストローブ=ユイレ
(余談)ラングとゴダールの対話のドキュメントである『恐竜と赤ん坊』(アンドレ・S・ラバルト)が見たい。
b) 全く同時通訳というのは有り難い。特にストローブ=ユイレの映画のように形式と内容が同等の重みを持っているようなものに関しては、内容を抜きにその作品について語ることはできない。2/1の日記で私は「『労働者たち、農民たち』は大好きな作品で何度も見ているが(もちろん彼らの他の全ての作品も同様)、この『放蕩息子の帰還』はちょっとそれに較べるとやや弱いような印象を見ている間に感じた。」と書いたが、この記述を全面的に撤回したい。この作品は『労働者たち、農民たち』を補完し、それを批評するようなフィルムである。これはちょうど同じ作家の『エンペドクレスの死』と『黒い罪』との関係に等しい。
すでに前回述べたように、最初の十分ほどは『労働者たち、農民たち』の抜粋から始まる。この部分は、仲間を一度は裏切ってコミューンから逃げ出した男が、改悛して仲間のところにトラックとポケット一杯の札束を持ち帰ってくるが、仲間に半殺しの目にあうというエピソードに相当しているが、一見、この男のことを『放蕩息子の帰還』というこの作品のタイトルは示しているように思われる。しかしそうした予断が誤りであることが、作品を見ていくうちに分かってくる。
コミューンあるいは協同組合の仲間たちは、敗戦後の権力の空白地帯に共産主義的なユートピアを建設しようとする。厳しい飢えや寒さ、そして仲間内での諍いなどを耐え、春の訪れとともに彼らにも希望に満ちた未来が約束されたかに見えたところで前作は終わっていた。しかし狼たちは小豚が丸々と太っていくまで待っていたに過ぎなかったのだ。すなわちここで『放蕩息子の帰還』というタイトルの真の意味が明らかになる。帰還する「放蕩息子」とは、彼らに襲いかかる「狼」であるところの「国家」であり「資本主義」のことに他ならない。
映画は、まず彼らのもとに地主からの使者を登場させる。彼はだらしない格好をした飲んだくれの男である。彼はコミューンの皆に、土地には所有者がいて、もしその土地を耕したければその所有者と契約関係を結ばなければならないこと、それが守られなければ憲兵(カラビニエ)がやってくるはめになるだろうと婉曲的に彼らを脅す。コミューンのリーダー格の男がそんな脅しには屈しないし、カラビニエなどやってくるはずがないと答える。仕方がない、ではあなたと二人で向こうに行って話をしましょうと使者は提案する。ここでこの場面は終わり。リーダーは一旦、姿を消す。
次の場面になると三人のカラビニエが登場し、崖の上のコミューンの皆と対峙している。カラビニエたちは順に自分たちが新共和国からの使者であること、コミューンの存在自体、市場原理からすれば価値がないことなどを語り、遠回しにここから立ち退くように彼らに伝える。コミューンのメンバーの一人が「市場価値」なんてものに自分たちの労働を還元してはならないと注意を促す。コミューンの皆が崖の上で不動の姿勢で対峙しているかなり長いカットでこの場面は終わる。
次の場面は一転して、建物の玄関の中にキャメラが据えられる。この作品の最初のカットで朗読していた女性が尋ねてきて、仲間たちが連中の口車に乗せられて、コミューンから旅立ってしまったことをリーダーの恋人に伝える。彼らはリーダー不在の間、どうしてよいのか分からなかったのだ。彼女はベッドで横たわっているリーダーに向かって彼らを引き止めなくてはならないと言う。物憂げに起き上がり、ベッドの端に腰掛ける彼は俯き、無力感を表明する。そしてまたゴロンと横になって「何と言っていのか分からないんだ」という。最後のカットではキャメラは玄関のドアの外に据えられ、その前には顔を手で覆ったリーダーの恋人がしゃがんでいる。彼女は次に一声何か発した後、両腕を真直ぐ下に降ろす。こぶしを固く握りしめたまま。このままキャメラはティルトダウンし、彼女の握りこぶしと足元と地面をフレーミングする。彼女が足を降ろしている石畳には無数の蟻がひしめいている。そして映画は終わる。
この作品でのストローブ=ユイレは、やはり「グローバリゼーション」から取り残された人々を描いた『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタと密やかに連係しつつ、今まで以上に「帝国」あるいは「グローバリゼーション」に必敗を宿命づけられた闘いを孤独に遂行しようとしている。そして「帝国」に抗えるのはあくまでも「個」のレベルにおいての実践なのだ。現在の情勢下において私たちが必要としているのはこのようなフィルムである。一刻も早い一般公開を願う。この映画を見ている間中、柄谷行人の『トランスクリティーク』や残念ながら失敗に終わってしまった(?)NAMのことが思い出されてならなかった。
またすでに指摘したように、前作が裁判で陳述書を読み上げるようなモノローグからなり、それがポリフォニックに共鳴しあうという構成をとっていたのに対し、この作品では多くの場合、切り返しショットによって直接話法でのダイアローグが構成されている。これは、前作が共同体内部での対立と和解というやや弁証法的な物語であったのに反し、この作品では共同体とその外部の力との関係が扱われていることに由来するのではないか。

(追記)この作品についてのストローブ=ユイレのインタビュー(フランス語)を見つけた。
    http://www.fluctuat.net/article.php3?id_article=507
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さて日仏での上映の帰り、友人のY君とこの映画に勇気づけられつつ、お互いの次回作について話しあいながら市ヶ谷までゆっくりと歩いていった。それから私は新宿に行き、ABCでざっと文芸誌の最新号などをチェックした。『文学界』には柄谷行人の「帝国とネーション−序説」が載っていた。以前にも書いたが映画を見ているとこういう偶然がよくある。ただ立ち読みするには時間がなさすぎたのでこれは次の機会に廻し、阿部和重の「映画覚書」、『早稲田文学』の青山・スガ・守中氏の鼎談、『映画芸術』の諏訪・スガ・荒井・上野氏らの座談会(あと一人いたが名前を失念しましたスミマセン)を読む(id:kodaru4さん情報提供ありがとうございます)。で思ったのはスガ氏は青山・諏訪両氏に対して少し評価が甘いのではないか、あるいはこの二人の作品について実はよく理解していないのではないかという疑義が生まれた(ただしあくまで印象)。また、この『映芸』の諏訪氏のコメントを読んでも『H story』に対する評価を変える必要性は感じなかった。ただ自分の中で吉田喜重の『鏡の女たち』というのは、どうも処理できていないところがあって、この作家を尊敬してはいるし、過去の作品で好きなものは沢山あるのだが、この作品に関してはほとんど傑作だとは思うものの劇中の一色紗英の「自分探し」みたいなところの描写には辟易してしまい、去年のベストにも最後まで入れようかどうか迷ったのだが、結局、何のコメントもしなかった。それと誤解のないように補足しておくが、諏訪氏のことはとても尊敬しているし、現在の日本の映画作家のなかでも最も重要な一人だと思う。そして、これまでの作品、特に『M/OTHER』は本当に素晴らしい作品だと思っている。なのでこの作家に対する期待があまりにも大きすぎたがゆえに『H story』には本当にがっかりした。なおこの作家の自主映画時代の作品に『はなされるギャング』というのがあって、実はこの作品が一番好きだったりするのだが、『2/デュオ』から『M/OTHER』を経て『H story』に到る作品のエッセンスというのは、この自主映画時代の作品のなかにすでに萌芽として全て出揃っているので、見ていない人は機会があったらぜひ見てもらいたい。この時点ですでにここまで到達していたんだと驚くはずだ。それ以降の作品はある意味、その応用編みたいなものだと言っても過言ではない。
なお夜は新宿のすき屋で豚丼(「トンドン」と発音するらしい)を食べたが、なかなか美味であった。牛丼がいち早くメニューから消えたすき屋では「並」は自動的に「豚丼の並」を意味するようだ。他の牛丼屋がBSE騒動に便乗して、代用物で単価アップを計っている現在、値段据え置きでそれなりのものを出すすき屋の試みは高く評価したい。もしかすると牛丼より旨いかも。なお今日の昼はマック(最近、アップル・ジャパンの社長がマクドナルド・ジャパンの社長に就任するという冗談のような本当のニュースを耳にしたばかりだ)でてりやきバーガーのトリオ(セットではこれが最安値)を食べた。同じように映画・音楽・書物には金を惜しまないが、衣食住にはあまり金をかけない(といってもそれなりにこぎれいにしてはいるが)映画好きというのはまわりに結構いて、たいていは男性だったりする。一方、女性の映画好きというのは、経験から言って、結構、美人でおしゃれでグルメで旅行好きだったりするのだが、これは性差から来るものなのだろうか。