蓮實重彦 映画への不実なる誘い 最終回

hj3s-kzu2004-02-14

本日はせんだいメディアテークの「蓮實重彦 映画への不実なる誘い」の最終回をインターネット中継で見る。サイトに「日本の映画作家をゲストに迎え、現代の日本映画に新たな命名を試みます。」と予告されていたので、誰が来るのだろうと予想していたが、やっぱり黒沢清であった。まあ、黒沢さんじゃなかったら、青山さんか万田さんかな。
で、対談の内容なのだが、本日、起きたらすでに三時半を回っていたので、慌ててMacを起動したぐらいなので、最初の三十分を見逃してしまった。ただ話の流れからいって、立教時代から商業デビューするまでの話を語っていたのだろう。黒沢氏が語っていた内容はすでにファンにはお馴染みの話だったので、黒沢氏の『映像のカリスマ—黒沢清映画史』、『映画はおそろしい』、そして蓮實氏の『映画に目が眩んで〈口語篇〉』所収の対談を読めば、おおよそのことは分かる。そこで上述の書物には書かれていなかった、あるいは読んだのに忘れてしまったことなどを今回の対談から拾ってみる。
冒頭の三十分は上にも書いたとおり聞き逃してしまったので、その後の話から。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の前身である、お蔵入りになった『女子大生恥ずかしゼミナール』のために、にっかつ社内がこれを否定する保守派と肯定する改革派とに分裂してしまい。結果として改革派はほぼ全員、にっかつを退社してしまった(!)そうだ。これについて黒沢清の「図々しさ」というタームで蓮實氏はコメントした。『神田川淫乱戦争』がピンク映画としては好評のうちに迎えられたのに対し、この作品、さらに伊丹十三とのコラボレーションが不幸な結果に終わった『スウィートホーム』と黒沢氏は不遇の八十年代を過ごす。
ところで黒沢氏はこの頃、『カリスマ』の第一稿を書き上げていて、当時、彼が所属していたディレクターズ・カンパニーが勝手にそれを英訳してサンダンスに応募したことから、サンダンスへの短期留学が決まる。向こうの連中に話が通じる人はいましたか、という蓮實氏の質問に対して、唯一、話が通じたのはキット・カーソンだと黒沢氏は答える。彼は『パリ、テキサス』(ヴェンダース)の共同脚本家であり、『勝手にしやがれ』(ゴダール)のアメリカ版リメイクである『ブレスレス』(ジム・マクブライド)、そして何より『悪魔のいけにえ2』(トビー・フーパー)の脚本家である。黒沢氏は自分の脚本のことなどそっちのけで、彼とトビー・フーパーの作品の話ばかりしていたようだ。ちなみにこのサンダンス、ハリウッド養成機関のようなものになってしまっているが、出身者にタランティーノガス・ヴァン・サント、ソダーバーグなどがおり、黒沢氏と同期ではまだ有名になった人がいないため、「その年のトップが黒沢さんだったわけですね」と蓮實氏が聞くと、そうかもしれないと照れくさそうに黒沢氏は答える。
『ドレミファ娘』や『スウィートホーム』のいざこざのために、黒沢氏はプロデューサーたちから「言うことをきかない奴」と看做されて、映画の仕事が来なくなる。そこに関西のテレビ局から突然、仕事の依頼が来る。そこでの仕事は黒沢氏にとって新鮮な体験だったようだ。彼は宝塚映像というプロダクションで番組を製作したのだが、この会社の前身は小津の『小早川家の秋』を製作した(!)宝塚映画で、撮影所出身の年輩のスタッフが沢山いて、例えば予定が押してしまって、時計が夜の十一時を過ぎてしまった。困ったなあと氏が思っていると、スタジオの隅にプロデューサーとスタッフが集まって何やら相談をしている。これはきっと叱られるに違いないと氏が身構えていると、スタッフ一同頭を下げて、今日はこの辺で勘弁して下さいと暇乞いをされたそうだ。いままで8ミリ時代の仲間たちと映画を撮ってきた氏はこの時始めて、監督を頂点とするスタジオ・システムの権力関係というものを目の当たりにしたそうだ。また宝塚あたりの地形は山と海が街に接していて、東京では考えられないくらいロケ場所の利に恵まれていたために、比較的自由な発想で画づくりが可能だったようだ。ちなみに関西のことについて質問をした時に蓮實氏の念頭にあったのは、やはり関東大震災後に東京から関西に移住して才能を大きく開花させた二人の偉大な芸術家、谷崎潤一郎溝口健二のことだったのではないか。
さてしばらく映画界から遠ざかっていた黒沢氏のところに九十年代に入り、Vシネマの仕事が舞い込んでくる。これは学生時代に黒沢氏の8ミリ映画を見てきた世代がプロデューサーの地位に就くようになったため可能になったことだ。学生時代から東映のやくざ映画などに親しんできてはいたけれど、まさか自分がそういうジャンルの映画を撮ることになるとは思わなかったと氏は言う。『893タクシー』、『打鐘』(ちなみにこの作品、アルドリッチを思わせる傑作である)と続いた後に、哀川翔との企画が挙がる。黒沢氏は初め「あんなやくざのような人と仕事をできるだろうか」とびびっていたらしいが、会ってみると実はそんな人ではなく、こうして『勝手にしやがれ』シリーズ、『復讐』二部作、『蛇の道』、『蜘蛛の瞳』と続く息の長いコンビがスタートする。哀川翔主演であれば、かなり冒険的なことをしてもプロデューサーからは何も言われないことに気づいた氏は、自分でもかなり破綻していると思われる脚本をそのまま現場に持ち込み、哀川氏の方も「これ破綻していますよね」と笑いつつ、楽しみながら現場に臨むという理想的な共犯関係を二人は結ぶ。セリフを途中で哀川氏が忘れ、そのままアドリブで適当なセリフをしゃべると相手の役者もアドリブで答え、黒沢氏はそのテイクにOKを出す、といった感じで現場は低予算・早撮り、しかも同時に二本撮り(これだと一本半の予算で済むそうだ)で進められていった。
黒沢氏のことを「コメディ作家」と呼ぶ蓮實氏は、しかし『復讐』前後からシリアス志向になっていった理由を尋ねる。ここで意外な事実が明らかにされる。実は『勝手にしやがれ』シリーズと『復讐』二部作の間の1996年に、彼の助監督だった青山真治が『Helpless』でデビューし、その作品に刺激されたことが、その原因だというのである。『Helpless』を見て、本当にやばいと思ったと氏は言う。自分がいかにぬるま湯に浸かっていたかが分かったというのである。そこで『復讐』を撮り、自分でもこういうものが撮れることを証明したかったそうだ。
続く『CURE』で氏は世界的な注目を浴びる。東京国際映画祭に出品されたこの作品を観たジャン=ミシェル・フロドンは慌てて、会場近くで食事をしていた蓮實氏の所に駆け付けてきて、興奮した口調でこんな凄い作家が日本にいたとは知らなかった、彼にぜひ会わなくては、と語り、担当していた「ル・モンド」の映画欄に黒沢氏の顔写真入りで堂々1ページまるごとこの作品の紹介に当てた。しかし、今日の黒沢清の位置を不動のものとしたこの大傑作にしても、彼の意識の上では『復讐』の延長線上にあったようだ。次の『蛇の道』、『蜘蛛の瞳』は当初、『復讐』シリーズのパート3、4として企画されていたが、製作会社が変わったためにタイトルを変更したということである。
それ以降の黒沢氏の活躍は誰もが知る通りである。『ニンゲン合格』から『アカルイミライ』、『ドッペルゲンガー』へと到る傑作群(『回路』、『大いなる幻影』)の中で見逃してよいものはどれ一つとしてない、と蓮實氏は断言する。それにも拘わらず、興行的にはそれほどヒットしていないために、黒沢氏の次回作は海外資本で計画が進められているようだ。一つは韓国資本の日本語映画、もう一つはイギリス資本の英語映画だということだ。
最後に黒沢氏は日本映画が蓮實重彦という貴重な存在を持ちえたことに感謝し、彼の恩恵を被っている人間は自分だけでなく、他にも十数人いると述べて、この対談は終わった。
なお個人的には偏愛する『地獄の警備員』に話題が触れられなかったのが残念。あの頃まだ氏は「呪われた作家」だった。

映画はおそろしい

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映像のカリスマ・増補改訂版

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映画に目が眩んで〈口語篇〉

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