プレイタイム

hj3s-kzu2004-02-18

a)『プレイタイム』(ジャック・タチ

a) この映画が面白くない人は不幸だ。そしてこの映画は絶対に映画館で観られるべき作品である。もちろん本質的にはあらゆる映画がテレビモニターではなくスクリーンで観られるべきなのだが、この作品に関しては特にそうだ。これまで何度となくこの作品をテレビモニターで鑑賞して分かった気になっていたけれども、本日、シネセゾン渋谷の大きなスクリーンで観てこのことを確信した。何しろ画面に詰め込まれている情報量がハンパじゃないのである。またおそらく全てアフレコであるはずの繊細な音響もやはり大きな音で聞かないとその潜勢力を解き放つことはできない。
この映画がもし渾沌に見えるとしたら、それは画面の隅々まで厳密に(超厳密に)秩序づけられているからだし、この映画が狂気じみたものに映ったとしたら、それは極めて明晰な(超明晰な)視線によって統御されているからだ。度を超えた厳密さは渾沌に近付くし、過剰な明晰さは狂気に似ている。
例えば冒頭の空港の場面。果してこのロングの長回しのショットに登場する全ての要素を同時に視界におさめることができる人間が果してどのくらいいるものか。次々と現れては小ネタを披露して去って行き、ついには観光客の群れとして画面を埋めつくすものたち。それは例えば「差異そのもの」と呼べるかもしれない。
「喜劇の民主主義」?この作品を語る際にしばしばキーワードのように使われるこの言葉ほど、ここで起こっている自体に相応しくないものも他にあるまい。いうまでもなく近代の「民主主義」とは表象=代行作用を基盤としているものであり、その意味ではむしろ主役の視点を通して物語が円滑に語られる古典的なハリウッドの語りの方が遥かに「民主主義」的である。もしこの言葉をあくまでこの恐るべき傑作に当てはめようとするならば、それは「来るべき民主主義」とでも呼びうるようなもので、それは実際、私たちが考えているような「民主主義」とは似ても似つかないものかもしれない。
「来るべき民主主義」について考えるには、この作品のナイトクラブの場面を見てみるのが手掛かりになるだろう。この『プレイタイム』のクライマックスとでもいうべきこのシーンはまさに圧巻である。オープンしたてで内装職人たちがまだ作業をしているナイトクラブに、次々に客がやってくる。最初はガランとしていた店内が立錐の余地のないほどに沢山の人によって埋めつくされて行く。とはいえ、初めのうちはナイトクラブの支配人の指示に従って、従業員たちはてきぱき(しぶしぶ?)働き、客たちも多少のトラブルはあれど、おとなしく座席について料理が運ばれるのを待っている。ラテン系の音楽がやみ、代わりにジャズバンドがステージに立ち黒人のトランペッターが狂躁的なメロディを奏で始めた辺りから、何かが少しずつうまく行かなくなっていく。音楽が始まるやいなや、比較的若い男女がフロアでノリノリに踊り始め、以後、このグルーヴがある時点まで持続されていく。この熱気のために空調装置が機能しなくなる。アイスは溶けるわ、飛行機の模型がぐにゃりと翼をしなだれかけるわ、そして皆汗だくである。この事態を何とかしようと従業員の一人が柱に仕込まれたエアコンの操作板(それは映画の初めの方に出てきたあの妙な音を発する操作板にとてもよく似ている)を開くが、英語の読めない彼は使い方が分からない。それでも何とか冷房が効いてくる。すると今度は逆に風が強すぎて、席に座っているマダムのドレスの大きく開いた背中の贅肉をそれは変形させてしまうほどである。そしてこの狂騒は延々と続いて行く。もはや誰にも全体を統御することなどできない。ユロ氏が内装を破壊してしまったことをきっかけとして、この状態はさらにアナーキーの度を増していく。皆てんでんバラバラに好き勝手をしだす。金持ちのアメリカ人はこのクラブを俺が買い取ったと宣言し、このフロアの中にさらに小さな即席のクラブをつくってしまう。そしてその閾となるのは天井からぶら下がった、さきほどユロ氏が破壊した内装の切れ端で、その関門の出入りを取り仕切るアメリカ人が、その臨時クラブの入会資格として決めたルールは、各人の背中についたちょうど手のひらのような形をした椅子の背もたれの跡である。またこれと同時進行して何やら怪しげな人物たちが、紳士淑女の居並ぶこの高級クラブに次々と入ってきては、花壇に火をつけたり、いろんなことをしている。この超複雑なモブシーンを一定の持続を持ったシークエンスとしてコントロールしているジャック・タチの演出能力は恐るべきものである。前景・中景・後景で同時進行的にそれぞれの人物たちがそれぞれ別のことをしていて、しかもそのアクションはアングルが切り替わってもきちんとマッチングしている。しかも画面の中心を外したところで次々にギャグが炸裂していく。このシーンは一瞬でも気を抜いてしまうと、画面で今何が起きているのか分からなくなってしまう。そしてこの幸福な狂乱状態(そこでは各人が自らのしたいように振舞う)も、支配人のある不注意な行動によって、さらに天井が落ちてきて、それに驚いたバンドのメンバーが興醒めして音楽をやめてしまうことで終止符を打たれる。ふいに訪れる静寂。それに耐え切れないアメリカ人は誰かピアノを弾ける人はいませんかと皆に呼び掛ける。それに緑のドレスを着た美しい若いアメリカ人女性が応じる。通常の映画であれば、仮にユロ氏が主人公であれば、彼女はさしずめヒロインとなるべき主要人物なのだが、この特異な映画においては、もはや主人公とそれ以外の人物という区別は廃されて、ほぼ均等に全ての人物が扱われているため、彼女をヒロインとは呼べないので、とりあえずの呼び名としてアメリカ女性とでも呼んでおく。この女性がピアノの前に腰掛けてメロディを弾きはじめる瞬間を斜め前方から俯瞰ぎみの大ロングで捉えたショットは、そのメロディと相俟って、この映画で最も美しい瞬間の一つを形づくっている。見ていてついつい不覚にも涙してしまったほどだ。そしてそれに合わせてどこからともなくやってきた若者たちが、あるものはギターで伴奏し、あるものは舞台に腰掛けて声を合わせたりしている。しばしばゴダールの『中国女』が1968年の五月革命を予見した映画などと語られもするのだが、このタチの映画のナイトクラブのシーンの方が遥かに「68年的」ではないか。そして「来るべき民主主義」とはまさに差異たちが我勝ちにその存在を主張し、あたりに立ち騒ぎ出す、このようなもののことを指すのではないか。徐々にフロアから一人また一人と姿を消していく。楽しい宴は終わってしまう。ユロ氏とアメリカ女性が二人してナイトクラブから出た瞬間、外にあったキャメラが室内に切り替わり、二人の後ろ姿とその奥に広がる朝焼けの空を、冒頭に出てきた高層ビルとともに捉えた画面はとても感動的である。
二人はドラッグストア、そしてスーパーマーケットに行き、ユロ氏は彼女にスカーフをプレゼントしようとするのだが、彼女の乗るバスが出発してしまうので、ユロ氏は彼女に直接プレゼントを渡すことができず、自分と良く似た格好をした男に頼んで代わりにプレゼントを渡してもらうことにする。私たちはここで再び「代行作用」の回帰を認め、いささか残念に思う。
ナイトクラブのネオン(上の写真を参照)が?に良く似た形の矢印で、人を中へと招いていたのとちょうど反転した形で、彼女を乗せたバスはロータリーでの「メリーゴーラウンド」を思わせる上下運動を伴う回転運動(そこに到るまでに、タチはバイクに二人乗りをしたカップル、父親が引っ叩こうとするのを首をすくめてかわす子供、上下にゆれるフォルクスワーゲン等々を周到に画面に配して、その運動を準備している)のあと、そこから抜け出てまっすぐ空港に向かうだろう。立ち並ぶY字型をした沢山の街灯を残して。
プレイタイム ( 新世紀修復版 ) [DVD]