アパッチ

a)『アパッチ』(ロバート・アルドリッチ

a) 今日から断続的に「インデイアンまつり」を始める。ことのきっかけは青山真治氏からの批判で、テーマとしては「50年代以降のハリウッドにおいて、インディアンの主観はいかに表象されたか(あるいはされなかったか)」というものである。
なお、ここでは「インディアン」という言葉を使い、「ネイティヴ・アメリカン」という言葉を使わない。理由としては、最近よく耳にするこの言葉による置き換えが、「インディアン」という言葉が使われてきた文脈の歴史性を消去してしまうからである。
さてこの「インデイアンまつり」、まず『アパッチ』を取り上げる。理由としてはたまたま手元にビデオがあったというだけでなく、氏が批判しておられるのが『ワイルド・アパッチ』についての評であり、同じ作家の作品とで比較することで、論点が明確になるのではないかと考えたためでもある。なおこの『アパッチ』、撮られたのはもちろん『ワイルド・アパッチ』よりも前だが、扱われている時代はそれよりも後であることに注意。
物語はアパッチ族酋長ジェロニモの降伏から始まる。ところがそこに馬に乗ったアパッチ族の若者(バート・ランカスター)がやってきて、合衆国軍に帰順しようとするジェロニモを狙撃して逃げる。彼の恋人(ジーン・ピータース)が彼と一緒に逃げようとするが、二人ともすぐに捕まってしまう。ランカスターはジェロニモアパッチ族の人々とフロリダに向けて列車で護送される。しかし途中の駅で新聞記者たちがジェロニモの写真を撮るために車内に闖入し、ランカスターはそのどさくさに紛れて車窓から脱走する。途中、彼はチェロキー族の夫婦の家に泊まる。彼らは農業を営み、白人と対等に暮らしているという。チェロキー族の男はランカスターにモロコシの種の入った袋を与え、お前も無駄な抵抗はやめて、俺たちのように暮らせと言う。ランカスターはようやく故郷に辿り着く。白人に搾取されている同胞の姿を見て、彼は若者を集めて農業を始めようと考える。しかしピータースの父親の密告により、再び彼は捕えられてしまう。復讐に燃える彼は護送途中、再び脱走に成功し、ピータースを誘拐する。
これ以降の物語はランカスターとピータースとの関係を軸として進む。そしてこの作品はジャンルとしては通常、西部劇と看做されているが、実は物語の構造としては『ハイ・シェラ』(ラオール・ウォルシュ)、『暗黒街の弾痕』(フリッツ・ラング)、『夜の人々』(ニコラス・レイ)、『拳銃魔』(ジョセフ・H・ルイス)といった犯罪メロドラマに近い。「ボニーとクライドの物語」、すなわち社会から疎外され、はからずも犯罪者になってしまった若い恋人たちの物語である。
愛憎入り交じった二人の激しい感情に胸を打たれる。ランカスターはピータースもまた自分を密告したのだと誤解していて、泉のほとりの、喉が乾いて水を飲みたくても飲めないような場所に彼女の脚を縛り付け、合衆国軍の砦を奇襲しに出かけてしまう。彼が戻ってくると彼女は疲労困憊している。縄を解かれた彼女は急いで水を飲みに泉に駆け寄る。すぐに彼は彼女を乗せて馬を駆る。彼の目に宿る憎しみに対して、彼の誤解を非難する。自分の非を悟り、彼女を巻き添えにしたくない彼は一人立ち去ろうとするのだが、彼女は一緒に連れていってくれと彼に縋る。次の瞬間、彼がとった行動は私たちを十分ハッとさせる。それは彼の愛情の強い現れでもあるのだが、彼は手に持った木で彼女を殴り倒す。そして岩場を登れないように彼女の沓を脱がせて、遠くに放り投げてしまい、自分はすたすたと岩場を登っていってしまうのだ。ところが、しばらくののち、ある予感とともに振り返った彼の目に、手と脚を血まみれにして岩場を這い上がってくる彼女の姿が飛び込んでくる。和解して抱擁する二人。この時、ピータースの手は傷ついていて、ランカスターを抱き締めることができず、手の甲を裏返しにしているのだが、それがとても痛々しい。新婚の朝を迎え、幸福に満ちあふれた二人にも追っ手は待ってくれない。さらに山中の小屋へと逃れる。冬、ピータースは子供を身籠っている。獲物はなかなか取れない。飢え死にするよりましだと出ていこうとするランカスターをピータースが制止する。小屋の前に以前投げ捨てたモロコシの種が芽を出していたのだ。この荒れ地に二人は畑を作ることにする。そして畑が緑に萌える頃に追っ手はやってくるだろう……
ここで描かれた二人の愛の激しさ、特に泉のほとりのシーンと、岩場でランカスターがピータースを殴り、それでもなお彼女が彼を追ってくるシーンは本当に素晴らしい。マルグリット・デュラスがこの作品を見たら、きっと愛したに違いない。だがあの美しい書物、『緑の眼』で言及されていないところをみると、残念ながら彼女はこの映画を観ていないのだろう。
さて先ほど述べたように、この映画は西部劇というより犯罪メロドラマに近い。そのため、白人とインディアンが距離を介して視線を交換するといった、西部劇特有の「視線の劇」としての側面はむしろ希薄となっている。もちろん主人公がインディアンである以上、そこに「インディアンの主観」といったものが描かれていることは確かなのだが、それはあくまでも物語の構造上要請されたものとしてであって、具体的にフィルムの上に「見た目ショット」として定着されているわけではない。またバート・ランカスターとジーン・ピータースという白人の俳優がインディアンを演じていることからも分かるように、この作品でのインディアンというのは白人にとって理解可能なものとして描かれており、しかも彼らは物語の最後で白人に帰順してしまう。
もちろんこの映画が素晴らしいことは言うまでもないのだが、にも拘わらずインディアンの他者性がここで消し去られてしまっていることもまた事実である。おそらくそうしたことに対する自戒のためであろうか。アルドリッチは『ワイルド・アパッチ』において再度、アパッチをとりあげ、しかもそこにおいて彼らは白人にとって徹底的に理解不能な和解せざる「他者」として描かれている。しかも『アパッチ』でインディアンを演じたランカスターは、今度は彼らを追跡する側に回るのである。つまり『ワイルド・アパッチ』は『アパッチ』に対する批評であると言ってよい。
『ワイルド・アパッチ』におけるインディアンの「見た目ショット」に衝撃を受けたのは、『アパッチ』と違い、『ワイルド・アパッチ』における語り手の視点というのが、あくまでランカスターら白人の側に設定されており、そこへ突如として禍々しいアパッチによる「他者」の視点が唐突に侵入してくるからに他ならない。
結論を言えば、以上述べてきたことから明らかなように、『アパッチ』においては「インディアンの主観」というものは、物語のレベルにおいては要請されているが、具体的な画面としては表象されていないし、またその「主観」というのも他者性を剥奪された形においてのみ存在している。
なお『アパッチ』(1954)はアルドリッチ作品としては、日本公開作では最初期のものだが、彼のデビュー作はこの作品ではなく、『Big Leaguer』(1953)という日本未公開作である。

緑の眼

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