ドッグヴィル

hj3s-kzu2004-02-22

a)『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー
a) もの凄いものを観てしまった。映画の中で劫火を見たそのすぐ後に、映画館を出てみると、外は嵐が吹きすさんでいたのだからなおさらである。おかげでお気に入りのブルーのビニール傘が突風にあおられて見るも無惨な残骸と化してしまった。こんな日に映画など観るものではない。でも映画館に入るまでは晴れていたのだ。
さてこの作品、まずニコール・キッドマンの美しさに心奪われる。彼女を見ているだけで三時間などあっという間に過ぎる。逆光に輝く彼女の金色の髪、形のよい茶色の眉、碧緑に透き通った瞳、少し長い下睫毛、白い肌と少し赤みがかった頬骨、つんと上を向いた高い鼻筋、柔らかそうな唇。こうしたものを見ているだけでいい。ジャン・ルノワールは『自伝』の中で、私たちは女優の顔の大写しを観に映画館に行くのだというようなことを確か述べていたはずだが、この映画を観る楽しみの一つはまさにキッドマンのクローズアップを見ることに他ならない。そしてこの作品では彼女の様々な表情を見ることができる。喜びに満ちた顔から屈辱に歪んだ顔まで、あるいは愛の眼差しから冷酷な眼差しまで。この映画は彼女の顔のドキュメントという性格を持っていることは確かだ。
『ピースメーカー』(ミミ・レダー)のニコール・キッドマンは悪くなかった。『アザーズ』(アレハンドロ・アメナバール)も物語の退屈さにも拘わらず、彼女のおかげで一定の緊張感が持続されていた。『ムーラン・ルージュ』(バス・ラーマン)の下品なミュージック・クリップ的な演出にうんざりしながらもなお、その時代錯誤的な悲恋物語に涙することができたのも、ひとえにその薄幸のヒロインを演じたのが彼女だったからである。彼女が全編ロシア語を話す(!)『バースデイ・ガール』(ジェズ・バターワース)にしても、それがいかに三流の映画だとはいえ、彼女のおかげで映画館の席を立たずに済んだようなものだ。であるがゆえに、『めぐりあう時間たち』(スティーヴン・ダルトリー)は、バージニア・ウルフを熱演した彼女にオスカーをもたらしたとしても、あの馬鹿げた付け鼻で彼女の美しい顔を見る楽しみを私たちから奪ったという意味において犯罪的である。近年の彼女のフィルモグラフィーを見てみると、女優として充実した仕事をしているとはいえ、作品と彼女が互角に渡り合っているというよりは、逆に作品の方が彼女の存在によって救われている。唯一の例外は『アイズ・ワイド・シャット』(スタンリー・キューブリック)で、背を向けた彼女の衣装がすっと床に滑り落ちるあの短い最初のショットから「ファック」と口にする彼女のクローズアップで終わる最後のショットまで、たとえ後半のトム・クルーズの性的彷徨が馬鹿げたものに映ったとしても、あの最後の作品のキューブリックの演出は彼女の魅力に拮抗していた。したがってこの『ドッグヴィル』は作品とこの女優が互角の勝負をした久し振りの映画である。とはいえ、こうしてニコール・キッドマン讃を述べただけでは、この傑作について何も言ったことにはならない。そこで以下、この作品について多少の分析を試みる。
いみじくも『奇跡の海』について安井豊氏が指摘したように、あの作品においてヒロインの側を離れずに絶えず動き回り続けるキャメラとは「遍在する超越者(=神=作者)の視線」である。そしてヒロインがキャメラ目線になる数回のカットを除いては、あれだけキャメラが人物の間を回り込むにも拘わらず、誰一人としてキャメラを見てしまうものはいなかった。それは巧みに編集によって除去されていたのである。初期の凝った画面づくりを捨て、手持ちキャメラで全編を撮るようになったラース・フォン・トリアーはその後、『イディオッツ』、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を経て、この作品に到るわけだが、画面構成の面においてだけでなく、「一人の女性の受難」という主題において、そこにはある種の連続性が認められる。
なぜラース・フォン・トリアーの作品においてヒロインたちは苦難にあわなくてはならないのか。それは彼女たちが超越者と視線を交わすためである。あるいは超越者が彼女たちに苦難を与えることで、水平方向に延びていた彼女たちの視線を垂直方向に向け直すのだと言ってもよいかも知れない。このことを具体的に『ドッグヴィル』の画面に即して確認してみたい。
周知のように、この映画の舞台である「ドッグヴィル」という「町」はスタジオの床に引かれた白線といくつかの大道具からなるものである。そこでは何一つ隠されているものはなく。「町」の隅から隅まで私たちは見渡すことができる。ここで陥りやすい過ちとして、私たちはついこれを「演劇」的だと呼んでしまいそうになる。しかし仮にこれが演劇の舞台だとしたら客席はどこに設ければよいであろう。物語の進行の全てを追えるような定点などこの「舞台」には存在しない。それでもこれを演劇として鑑賞しようとするなら、『彼女たちの舞台』(ジャック・リヴェット)の冒頭に登場するアパルトマン演劇の観客たちのように、劇の進行とともに自分たちも一緒に移動しなくてはならない。したがって、もしそれでもこれが「演劇」だとするならば、それはキャメラを媒介とすることによって初めて成立するような演劇だろう。
さてこの「舞台」においては、ゲームの規則は尊重されなくてはならない。つまり白線を引かれたところには壁ないしそれに類する障害物が存在し、あたかもそれによって視線が遮られているかのように登場人物たちは振舞わなくてはならないのだ。唯一、この規則を破ることができるのは、私たちには見ることのできない、もう一人の登場人物であるキャメラ(=神)である。遍在するのが神の本性である以上、この登場人物はあたかもそこに白線など存在していないかのように、登場人物たちを会話の途中で逆から回り込んで捉えたりする。そして彼らは逆にキャメラなど存在していないかのように振舞い、『奇跡の海』でそうであったように、決してキャメラと視線を交わしたりはしない。そしてまた、「町」の隅々まで見渡すことのできるキャメラの視線というのは、私たちの視線でもあるのだ。登場人物が知り得ないことを私たちは知っている。しかもナレーションと章立てのタイトルが、私たちの視覚を補ってくれる。このヒッチコック的とも呼べる関係構造の中で、唯一、私たちが登場人物と同じ状態に置かれる情報は、ニコール・キッドマンがなぜギャングに追われているのか、という一点に尽きる。それ以外に関しては、俳優たちのあからさまな身振り(ある意味、ブレヒト的な引用の身振りとも言える)によって、彼らの欲望の底の底まで読み取ることができる。
初めはよそ者のキッドマンに距離をおいて接していた住民たちは、彼女の弱味を握ったと知るや、彼女を奴隷のように酷使し、さらには性的奴隷として搾取する。そして彼女の最もよき協力者であるはずの男が彼女のために考え出した計画はことごとく裏目に出てしまう(そして彼が一番の偽善者なのだ)。ついに脱出を試みて彼女はトラックの荷台に身を隠す。仰向けの姿勢で真俯瞰で捉えられた彼女は真上を向くのだが、この時の彼女はやはり『奇跡の海』のヒロインのように、キャメラ=神=私たちを見据えるのだ。それが彼女に対する欲望を露にした男によってすぐに中断されるとはいえ。
高貴な美しさに満ちた彼女はなぜこうまでして、無知で下品で狡猾な欲望の奴隷たちの意のままになっているのか(逃亡に失敗した彼女は、ベルのついた犬の首輪と鎖で結ばれた重しの車輪を引きずりながら、辱めに耐えていく)。物語はこの一点に向けて収束していく。なぜ最初のショットで、大ロングの真俯瞰からキャメラはラジオをひねる手元のクローズアップへとクレーンダウンしていったのか。それは最後のショットで全く同じ動きを見せるためである。ただし被写体をかえて。なぜ「町」には白線が引かれているのか。それは最後にそれを消してしまうためである。なぜ「犬」は姿が見えないのか、などなど。こうしたいわばエドガー・アラン・ポー風の逆算による構成原理がこの作品を形成する上で働いているのだが、なぜ壁が透明なのかというのも、その一つだろう。それは物語の最後に現れる一つの「密室」(=ロールスロイス)を隠しており、その外部からの視線を遮断した「密室」の中で「最終決定」が下される以上、その「密室」とはもう一人の登場人物であった超越者の地上における反転した姿に他ならない。二発の銃弾の音によって開始された物語が、一発の銃弾をもって締めくくられた後、私たちの目に突如として見えてくる、見えなかったはずのあるものとは、社会という関係の網目から零れ落ちていた「現実」(あるいは犬=世界)そのものである。そして「現実」は幾多の眼差しによって私たちを見つめ返す。
だが、なお謎は残る。なぜ彼女たちだけが超越者と視線を交わすのか。