音楽喜劇 ほろよひ人生/はたらく一家/この世の外へ クラブ進駐軍

hj3s-kzu2004-02-27

a)『音楽喜劇 ほろよひ人生』(木村莊十二)
b)『はたらく一家』(成瀬巳喜男
c)『この世の外へ クラブ進駐軍』(阪本順治
a) 1933年製作、ということはつまりまさしく「戦時下の映画」である。実際、この年には、日本は「満州国」不承認のために国際連盟を脱退し、また共産党員の一斉検挙と彼らの獄中転向が続く。とはいえ、この作品にそんな暗さは微塵もない。あるいはこの脳天気さが、逆に当時の社会が抱えていた病理を照らし出すというべきか。
冒頭のタイトルバックはP.C.Lの白亜の新社屋をひたすら見せ続ける。異様と言えば異様なオープニングだ。本編に入ると、真っ白でモダンなプラットホームに一目で作り物だと分かる列車が滑り込んできて、そこへ藤原釜足のアイスクリーム屋と千葉早智子(この数年後、成瀬巳喜男の妻となる)のビアガールがそれぞれの商品を売りに車窓へと駆け寄る。藤原釜足はおそらくこれがスクリーン・デビュー作であろうか。縦縞のストライプのシャツ(!)を着て、彼女に恋を囁くが、彼女はつれない素振りである。というのも彼女は天才音楽家の大川平八郎に恋しているから。物語は、大川が作った流行歌が大ヒットしてしまったことから起こる波紋と、彼らの三角関係(とはいっても藤原釜足が横恋慕しているだけなのだが)を描き、その間に各人の階級の上下動があったりする。藤原釜足のノドはなかなかのもので、『鴛鴦歌合戦』の志村喬に匹敵する。とはいえ映画的には特筆すべきところはない。
b) こちらは1939年の成瀬作品。「戦時下」の成瀬は『鶴八鶴次郎』(38)や『歌行燈』(43)など傑作ぞろいだが、この映画はあまりぱっとしない。フィルムセンターのチラシに「本作はプロレタリア文学者徳永直の短篇集を成瀬がまとめて演出したもので、老いた印刷工の一家の貧しくとも明るい生活を活写した。」とあるが、この表現は誤解を招く。よく「戦時下」に堂々と「プロレタリア文学」を映画化できたものだと疑問に思い調べてみたら、徳永直はすでに「転向」していた。なお原作については、宮本百合子による評を参照のこと。それを読むと、元々は女性をメインにした話だったようで、劇中に出てくるカフェの女給なども実は失業問題などを背景に持っているのだが、そこはバッサリ切られている。主人公の一家が「貧しくとも明るい生活」を営んでいるかも疑問で、長男は貧しい生活から脱出しようと学問を身につけたがっている。
ラストに部屋の中央に置かれた座布団めがけて次男以下の兄弟が突然、「がんばるぞー」だったか「負けないぞー」とか連呼しつつ、三方からくるくるとでんぐりがえしをし続けるところをフィックスで捉えて終わるのが、どこかヘンで微笑ましい。
c) この作品については海老根剛氏による素晴らしい作品評を参照のこと。
オダギリジョーが下宿の窓の側に座り、外の方へ目を細めつつ煙草を吸っている。摺りガラスなのか、窓の外は何も見えず、ただ白く柔らかくあたたかい光が彼とその周りの空間を包んでいる。やおら彼は振り返り、卓袱台に突っ伏して寝ている少女に向かって長崎弁で語りかける。もちろんまだ彼女はまどろみの中にあり、彼の語りかけも半ば独り言のように消えてしまう。少女は彼に思いを寄せているのだが、そもそも二人を結び付けるきっかけとなったのは、まだ戦争の傷跡の塞がっていない時代にあって、そんな傷跡などなかったことにして楽しく日々を過ごしていけばいいのだと虚勢を張った彼女に対して、被爆者の母を持つ彼が、それまで私たちが見てきた姿とはうって変わって、激しい怒りを劇中初めて露にし、手に持っていたコカコーラの瓶を床に叩き付け、後に控えたステージの出番をすっぽかして、米軍キャンプのクラブを立ち去ってしまったためである。結局、彼女は謝罪するために彼が寄宿していた家の入口で一晩中彼を待ち、明け方に酔って帰宅した彼におそらくは初めての唇を奪われることになる。一方、彼に去られてしまった萩原聖人らバンドのメンバーは、クラブを仕切っていた軍曹の誕生パーティーで、禁じられていた「ダニー・ボーイ」(彼はダニーという愛息を亡くしたばかりだ)を演奏し、兵士たちの不興を買い、戦争で弟を亡くしたがゆえに「ジャップ」に憎悪を抱いているラッセル(彼自身もサックスプレーヤーである)から、「最新の」ジャズの楽譜を挑戦的に突き付けられることになる。
この作品の中では「忘れること」あるいは「忘れ得ないこと」がいくつも語られていく。それはヒロシマナガサキであったり、兄弟の絆であったり、愛息の思い出であったり、あるいは弟を殺した日本人への憎悪であったりするのだが、残念なのはそうした様々な主題があまりにも多すぎて、二時間あまりのこの作品の長さに収まりきっていないように見受けられる点である。もちろん物語は萩原とラッセルの対立と和解を核として語られていくのだが、展開されかけた幾つかの小さな物語が十分に展開しきらないうちに、物語が収束してしまい、個々のエピソードがどこか途中で中断されてしまったかのような印象を受ける。一例を挙げよう。村上淳の生き別れになった弟が、片足をなくした傷痍軍人に拳闘の手ほどきを受けるシーン。このときキャメラは建物の外から窓越しに横から二人を捉えており、少年のパンチを手で受け止める傷痍軍人が後退するのに合わせて、左方向に横移動していくのだが、建物の端まできてもそのままキャメラは移動を続け、突如、その運動が断ち切られて、次のシーンに移るのだが、見ていてこのシーン同士の繋ぎがスムーズではなく、かといってそのぎこちなさを狙っているわけでもなく、実はあの移動の後もう一芝居あるのだが尺の都合上カットしたというように見える。また初めに書いたオダギリジョーが長崎弁で少女に語りかけるシーンについても同じような感じを抱いた。あそこで何故、彼は長崎弁で語りかけたのか。彼女が長崎出身で家族に被爆者がいたり、あるいは被爆で家族を亡くしているというのであれば理解できる(実はそのような物語が背後に隠されているように思えた)……しかし作品の中でそれを示す形跡はない。
とはいえ、この作品は現在の日本の状況下においては、観られなくてはならない映画ではある。
なおこの映画には長曽我部蓉子がストリッパー役で出ていて、美しい肢体を披露している。ファンの一人としてはもう少し彼女の出番が見たかった。
(追記)それと「音楽映画」であるにも拘わらず、あの音響処理の雑さは気になった。シーン終わりでそれまで流れていた音楽がブツッと寸断されてしまうのだ。かといって寸断することによって、強度のようなものが生まれるわけでもないので、単に雑なのだと理解した。同じことは『ココロ、オドル』(黒沢清)についてもあてはまる。