キング・ヴィダーを讃える

hj3s-kzu2004-03-31

a)『麦秋』(キング・ヴィダー
b)『摩天楼』(キング・ヴィダー
a) 『麦秋』と書いて「むぎのあき」と読む。「ばくしゅう」(小津)ではないので注意。
1930年代にすでにこのようなことを考えて、しかもそれを映画にしてしまった人間がいるということにまず驚かされる。これはつまり「協同組合」あるいは「アソシエーション」についての映画ではないか。またこのコミューンがいかにして危機に直面し、それを乗り越えるかということに関して、『労働者たち、農民たち』(ストローブ=ユイレ)の問題意識と重なる。
ヴィダーの演出は『北西への道』がそうであったように、人々がまるで一個の機械のように組み合わさって、一つのことをやり遂げる瞬間にとても躍動感にあふれたものとなる。クライマックスの河から用水路を引く際の場面を見てみるがいい。昼夜を徹してコミューンの人々が地面につるはしを入れる。土につるはしが打ち込まれる音の規則正しい正確なリズム。後半のほぼ10分間はこの描写に費やされ、ついに畑まで溝が達した時、力つきて倒れるものもいる一方で、要所要所に待機しているものたちに作業終了の合図がリレーで伝えられる。そしていよいよ溝と河を結ぶための最終的な一撃が地面に加えられ、水は奔流となって用水路を勢いよく流れ出す。この爽快感。溝を溢れ出すのを食い止めるために自らの身体を張って決壊を押さえるものもいるが、泥だらけになった彼の姿は水と戯れている子供のように楽しげである。そしてこのシーンほど1920年代の偉大なロシア映画たちを思わせるものもないだろう。最もアメリカ的だと思われがちな映画作家の中のロシア性。
なお中盤で農場が競売にかけられて売られそうになった時、それを買いにきた資本家や地主たちをコミューンの人々が取り囲んで、彼らの口を封じてしまうというシーンがあるのだが、これとそっくりな場面が『人生はわれらのもの』(ジャン・ルノワール)にあったはずだ。
b)「建築」と「力」についての考察。ただしこの映画における「建築家」とは「映画作家」の隠喩でもある。あるものは大衆に迎合し、あるものは孤高を貫く。そして『麦秋』がそうであったように「資本主義」に関する考察でもある。かつてハリウッドの主流でこれほど知的な映画が作られていたことに改めて驚かされる。彼は『一年の九日』のミハイル・ロンムと並んで映画史上最も知的な映画作家の一人である。
ここでゲイリー・クーパーが演じている主人公の建築家はほとんどニーチェ的な「超人」である。彼はルサンチマンを持たず、自己定律的である。すなわち真の意味で「自由」である。そして『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)で「キャプテン・アメリカ」が語ったように、「自由」という言葉は溢れているが、実際には誰も「自由」でないアメリカにおいては、人々はその「自由」を憎悪する。
クーパーは一切設計の変更を認めないという条件で落ち目の友人の代わりに大プロジェクトの設計を手掛けるが、それが裏切られると、建造中のその建物をダイナマイトで爆破する。彼はもちろん起訴されるが、彼自身の弁論によって、逆転無罪となるだろう。メディアの情報操作に惑わされず、自分の目で見、自分の頭で考えれば、何が正しくて何が間違っているのかは分かる。ここにこそ、ヴィダーが最後の希望を見いだしていたことは明らかだ。
職を失ったクーパーが掘削労働者として採石場で働くシーンで、手前に労働者、奥の高台にヒロインを配した構図のショットが出てくるのだが、ここなどは構図の幾何学性とドキュメンタルな要素が混在した奇妙な魅力のあるショットである。後に『見知らぬ乗客』以後のほとんどのヒッチコック作品を手掛ける撮影のロバート・バークスによる逆光を基調とした野心的な画面づくりは、ほとんど『ウイークエンド』(ジャン=リュック・ゴダール)の冒頭を予告している。

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