ウサギと蛇

hj3s-kzu2004-04-01

a)『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』(ジョー・ダンテ
b)『花と蛇』(石井隆
a)「狂躁的」という言葉がこれほど似つかわしい映画もないだろう。バックス・バニーとダフィ・ダックを初めとする「登場人物」たちは、映画の最初から最後まで休む間もなく喋りつづけ動き回る。
冒頭、ワーナー・ブラザーズの撮影所でダフィ・ダックが「リストラ」を命じられるのだが、長い会議テーブルにずらりと同じようなスーツを着た重役連が座っている、その奥に控えているのは何と「ワーナーのブラザーズさん」なのであった。ここでダフィにリストラを命じるヒロインを演じているのは、『僕たちのアナ・バナナ』(エドワート・ノートン)の、というよりは、NHK海外ドラマ『ふたりは最高!ダーマ&グレッグ』のダーマ役としておなじみのジェナ・エルフマンである。この映画、御存じのように日本では吹き替え版のみの公開なのだが(字幕版DVDの発売が待たれる)、カートゥーンのキャラクターが人間と同じ画面に同居するこの作品にあっては、思っていたほど気にならない。ただし、どうせ吹き替え版で上映するなら、彼女の声はぜひダーマの声の雨蘭咲木子氏にやってもらいたかった。おそらくもっと騒がしい映画になっただろう。雨蘭氏の声は割に甲高いので、以前『僕たちのアナ・バナナ』を字幕で見た時には、ジェナ・エルフマン自身の声のハスキーさとの落差に驚いたものだ。ついでに言うと主人公のブレンダン・フレイザーの声は森川智之氏があてていて、彼はまさに『ダーマ&グレッグ』ではグレッグの声である。またスティーブ・マーティンが悪の親玉ミスター・チェアマンを怪演しているのだが、あまりの怪演ぶりにクレジットを見るまで彼だと気づかなかった。
また悪の組織に誘拐されたティモシー・ダルトンを探しにダフィとブレンダン・フレイザー、それにジェナ・エルフマンとバックスは砂漠で政府の極秘施設「エリア52」(「51」ではない)に偶然辿り着いて、そこでSFファンにはお馴染みの、『禁断の惑星』(フレッド・マクラウド・ウィルコックス)のロボット「ロビー」や『宇宙水爆戦』(ジョセフ・M・ニューマン)のミュータント等々をそこで目にするのだが、これってワーナーじゃないだろ!と突っ込みを思わず入れそうになった(『禁断の惑星』はMGM、『宇宙水爆戦』はユニヴァーサル)。この後、舞台はパリ、アフリカ、さらには宇宙へと場所を変えるのだが(ルーブル美術館での追っ掛けが楽しい。カートゥーンのキャラクターたちは、名画の中を通り抜けたりする)、それは見てのお楽しみ。
ところでこの間の蓮實・中原対談で、『サイコ』(ガス・ヴァン・サント)のシャワー殺人のシーンを巡って、ジョー・ダンテの方がガス・ヴァン・サントよりもヒッチコックに敬意を払っているから偉い、というような発言を蓮實重彦氏がしていたのだが(そしてそこではバスタブの有無が問題になっていたはずだ)、実際、ジョー・ダンテのこの作品を見てみると、しっかりと彼もバスタブに倒れるバックスを真俯瞰から撮っていたのであった。するとあの発言は何だったのか。「呪われた作家」ジョー・ダンテを顕揚するための戦略だったのだろうか。ちなみにヒッチコック版『サイコ』ではどうなっているのか確認しようと思いビデオを探したのだが、生憎と手元には見つからなかったので、『映画術―ヒッチコックトリュフォー』に載っているシャワー殺人のデクパージュ(pp286-287)を見ると、これまた驚いたことにしっかりとバスタブが写り込んでいたのだった。
b)杉本彩の美しい裸体を見るための映画。それ以上でも以下でもない。実際、ほとんどのシーンで彼女は前貼をつけていないのではないかと思われるほどで、際どいアングルからのショットも多い。しかし映画としてはとても酷い出来で、石井隆の映画を今まで支持してきたものとしては、本当に彼が撮ったのかと目を疑うばかりだ。彼のこれまでの劇作においては、「性」を介して後戻りできない地点にまで人間関係が変容していき、そしてそこには常に「暴力」というものの存在がそれを突き動かすものとしてあったはずなのだが、この作品においてはともに図式にとどまっていて、見るものの情動に働きかけることはない。ドラマらしきものは前半に素描されるだけで、杉本彩が監禁されて以後は、彼女に対するSMプレイが描写されるだけだ。しかも小沼勝であれば、女の肌にさらに食い込む縄、谷ナオミの眉間に刻まれる深い縦皺、吊り木の軋む音、などといったようなもので表現したであろう彼女の苦痛と官能を石井隆は全く表現しえていない。おそらく実際の縄師かと思われる(というのもどう見ても役者とは思えないので)サングラスをかけた男が延々と彼女を責めていく様子をキャメラは捉えるのだが、ここなどは演出によってSMプレイを見せるというよりは、単にSMプレイをドキュメンタリー的に撮影しているような感さえあり奇妙な印象を与える。ならばある種の肉体のドキュメンタリーとしての画面の強度があるかというとそれもない。それはおそらく様々に趣向を凝らしているはずのSMショーの演目を細切れに編集しているからだろう。バーベット・シュローダーのフランス時代の傑作『女主人』も同様の主題をドキュメンタリー的に撮っているのだが、あれなど見ていて本当に痛そうだった(撮影を担当したネストール・アルメンドロスの『キャメラを持った男』によると、SMシーンだけ本物の女王様とM男が吹き替えているそうだ)。見ていて何でこんな中途半端な編集をするのかと訝しく思ったのだが、公式サイトを見て納得。未公開シーンを有料配信しているのだった。つまり映画本編はこの商品を売るための広告にしか過ぎないのである(おそらくDVD化される際にはこうした特典映像を付けて儲けようと考えているのだろう…)。そうした経済的観点からすると成功作だと言えるが、美学的観点からすると見るべき点がない。ただし杉本彩の身体はこうした映画には向くと思われるので、シリーズ化されることを期待。