The Queen Is Dead!

hj3s-kzu2004-04-03

a)『ロバと王女』(ジャック・ドゥミ
b)『ハレルヤ』(キング・ヴィダー
c)『ストライキ』(セルゲイ・エイゼンシュテイン
a) ジャック・ドゥミの全作品を見たわけではないにもかかわらず、彼の最高傑作だと言ってしまいたくなるような素晴らしい作品。制作年度が1970年というから五月革命のわずか二年後である。同時期に他のヌーヴェル・ヴァーグの作家たちはどのような作品を撮っていたのかざっと見てみよう。『イタリアにおける闘争』(ジャン=リュック・ゴダール)、『家庭』(フランソワ・トリュフォー)、『肉屋』(クロード・シャブロル)、『クレールの膝』(エリック・ロメール)、『アウト・ワン』(ジャック・リヴェット)、『オトン』(ストローブ=ユイレ)、そしてアラン・レネにいたっては68年の「シネ・トラクト」以後、五年間の沈黙がある。こうして並べてみると、この作品の孤高の反時代性が際立つ。
『ローラ』におけるラウル・クタールのまばゆいばかりのキャメラも素晴らしかったが、この作品の端正にして厳格なキャメラワークも素晴らしい。それもそのはず撮影を担当したギスラン・クロケは『夜と霧』(アラン・レネ)、『穴』(ジャック・ベッケル)、そして何よりもロベール・ブレッソンの三本『バルタザールどこへ行く』、『少女ムシェット』、『やさしい女』のキャメラマンなのだった。見ていて50年代のフリッツ・ラングのような厳密さを感じたのだったのだが、上映後のティーチ・インでジャン=マルク・ラランヌにそのことを聞いてみたら全く同意してもらえなかった。その時は自分の印象が間違っているのかとも思って冷汗をかいたが、こうして彼のフィルモグラフィーを見てみると、あながちこの直感も間違ってはいなかったように思う(ちなみに今考えるとラランヌはキャメラマンの名前を勘違いしていた)。さらに驚くべきことに実はこのギスラン・クロケ、『ロシュフォールの恋人たち』の撮影も担当している。何と異なった撮影コンセプトだろう。てっきり別人がやっているのだとばかり思っていたので、これには驚いた。
物語は他愛がないといえばその通りなのだが、ドゥミはこのゲームに命がけの真剣さで臨む。女王(カトリーヌ・ドヌーヴ)が死ぬ。彼女は王(ジャン・マレー)にもし再婚するなら自分よりも美しい女性を選ぶようにと言い残す。だが彼女より美しい女性などそういるものではない。数年が過ぎ、そろそろ王も新しい妃が欲しくなる。だが亡き女王との約束も守らなくてはならない。実は二人の間には年頃の一人娘の王女(カトリーヌ・ドヌーヴ)がいて、亡き女王そっくりである。ならば彼女と結婚すればよい(!)と王は考え、求婚するがもちろん彼女が承知するはずもなく、魔法使い(デルフィーヌ・セイリグ)の力を借りて、城を逃げ出し、ロバの皮を被った汚い格好をした下女として農家で働くのだった。ところがもちろんお伽噺なので、白馬ならぬ赤馬(真っ赤に彩色されている)に乗った美男子の王子様(ジャック・ペラン)だけは彼女の正体を見抜いて、彼女に恋するのだった…
ドヌーヴとセイリグはため息が出るくらい美しい。『ロシュフォールの恋人たち』がそうであったように、この作品に出てくるものは人の顔に到るまで悉く人工的に彩色されている。しかし『ロシュフォールの恋人たち』がいかにも人工性を感じさせたのに対し、題材がお伽噺だからであろうか、ここで彩色されたものたちは周囲の背景にすんなりと溶け込んでいるように思われる。特に王子と部下たちが乗った赤馬が浅瀬を渡って渡河するさまをやや俯瞰ぎみの逆光のロングで撮られたショットは、ジョン・フォードの一場面のように美しい。
また主題(鏡、変身など)や特殊効果(逆回転、スローモーションなど)から見て分かるように、この作品にはジャン・コクトーと共通するものがある。しかしこの作品に見られるような厳格な構築性というものはコクトーの作品には見られないものである。しかもドゥミはこうした構築性を最後の最後であざやかに壊してみせる。しかもコクトー的なやり方で。ことによるとドゥミにおける「68年」的なものはこうしたところに表れているのかもしれない。必見。
なお、ジャン=マルク・ラランヌの話で興味深かったのは、ジャン・コクトーが子供の頃に読んだと思われる『美女と野獣』の原作の版をある文学研究者が調べたところ、そこにはこの映画のショットとよく似た構図の挿し絵があったというエピソードとか、『都会のひと部屋』でドミニク・サンダが演じたヒロインの役をドゥミは初めドヌーヴに打診したのだが、この映画がやはりミュージカルだったので、すでにそれ以前の映画で歌の場面をドヌーヴ以外の歌手が吹き替えていることがすでに知れ渡っていたため、彼女は断ったといった話や、デビュー当時、ロジェ・バディムの映画に出ていた頃はドヌーヴはキャベツみたいな髪型でそれほどパッとしなかったのが、『シェルブールの雨傘』でイメチェンを計ってから人気が出るようになったとかそういった雑談。
b) オール黒人キャストの映画。あの時代にこんなことを考え付くヴィダーという人はやはり変わっている。踊子にそそのかされて有り金をギャンブルで全てスッてしまった主人公は逆上し、彼女とぐるのイカサマ師に向って発砲するが、自分の弟に流れ弾が当たって、死なせてしまう。それを機に彼は伝道師になるのだが、伝道先で踊子と再会し、彼女は改悛したかにみえたが、彼の方が逆に信仰を捨て、二人で駆落ちしてしまう。工場労働者として彼は働くのだが、留守の間に彼女は昔の男と逃げてしまう。彼はそれをどこまでも走って追い掛ける。逃げる馬車の車輪が外れ、そこから投げ出された彼女は打所が悪かったのか息を引き取る。彼はイカサマ師を追い詰め殺す。数年が経ち、服役を終えた彼は再び我が家に帰る…というのがこの作品の物語である。見ていて面白かったのは、伝道師となった主人公が説教をする場面で、身振り手振りを交えて演説をする彼の姿はまるで芸人である(機関車のモノマネが実に上手い)。そしてそれを聞く黒人たちは一種のトランス状態に入るわけなのだが、実際、ここに映っている何人かは本当にトリップしているのではないだろうか。
そして彼の『麦秋』がそうであったように、ヴィダーはこの作品のクライマックスともいうべき、沼地の中を主人公がイカサマ師を追い詰め殺す場面を、音楽を一切使わず、ただ環境音と二人がざぶざぶと水の中を歩いていく音のみで構成している。
c) エイゼンシュテインの作品中では唯一見逃していた作品だが、ゴダールがかつて述べた「エイゼンシュテインはモンタージュを発明したのではなく、アングルを発見した」という有名な言葉はこの作品を見るとよく分かる。またこのデビュー作でのエイゼンシュテインはとてものびのびとしていて、アメリカ映画への偏愛を後の作品のように隠してはいない。それは夜の雨の中、労働者の一人が秘密警察に連行される、あの深い闇を見れば明らかである。あるいは官憲のスパイたちの描き分け方も。
エイゼンシュテインは『戦艦ポチョムキン』の有名なオデッサの階段のシーンにおける乳母車のように幼子を使って緊迫感を盛り上げたりするのがとても上手い。この作品でも、騎馬警官隊と労働者が対峙するなか、後者の群れから一人の幼児がよろよろと警官隊の馬の足元まで歩いていってそこに座り込んだりする場面や最後の大虐殺で集合住宅の上の階から警官が子供を下に無造作に放り投げる場面には本当にぞっとさせられた。ラスト、累々たる労働者の屍体があたり一面を埋め尽し、そこに「忘れるな!人民たちよ!」という字幕が入り映画は終わる。何と素っ気ない終り方なんだと一瞬呆気にとられた。面白い。