鉄西区 第2部:街

hj3s-kzu2004-04-07

a)『鉄西区 第2部:街』(ワン・ビン
ドラッグストアというほど気のきいたものではない雑貨店に、毎日ぶらぶらと何をするわけでもなく、無為に日常をやり過ごしている不良たちがどこからともなく集まって、そこで煙草を吸い、電話をかけ(彼らはもちろん携帯電話など持ってはいない)、おしゃべりをし、カードゲームに興じたりする。そこは要するに地元の若者たちの溜まり場の一つなのだが、そこの女店主は、彼らの一人が異性にあてて書いたラヴレターの下書きを読んで、それにコメントしたりするほど近しい存在である。映画の前半でキャメラは、彼らの「生態」に密着して、彼らの喧嘩や、悪ふざけや、恋愛というには幼い愛を見守り続ける。
第一部からこの映画を見てきたものにとっては場違いに思われるカラフルな小旗が地面に置かれている様を捉えたファーストショットの後に続く冒頭の「チャリティくじ」の場面で、司会の男が煽りつける言葉がまさに資本主義のイデオローグの言説であったように、市場化の影響はこの地方の街にも押し寄せている。中学を出て何もせずに暮らしている若者たちは、しかし家族や地域共同体に保護されているかに見える。こうした一種の「楽園」のような状況は映画の後半に一変してしまう。
彼らの住んでいたスラム街は実は第一部で見てきた工場を経営する企業の社宅群であったわけなのだが、不況により経営の合理化を迫られた企業は社宅の縮小・移転計画に着手し、それを押し進めていく。次々と引っ越していく人々。しかしその中でも、その計画に反対し、立ち退きを拒否する人々がいる。無人になった家々から破壊が進められていき、最後に数家族のみが残る。当局から差し向けられたヤクザまがいの男たちが立ち退きに従わない人々の家屋の窓ガラスなどを壊して回っているらしいのだが、男たちの姿は画面に映し出されることはなく、事後的にそのことが人々の口を通して私たちに知らされるのみだ。電気・ガス・水道といったインフラが止められた中、彼らは火をおこし、辺りに積った雪を溶かしで生活水とし、ロウソクの乏しい明かりで食卓を囲む。映画の前半で目にしてきた雑貨店がやはり残った人々の集会場のようになる。そこには石油ストーブがあり、ランプが明々と室内を照らしている。あるいは二人きりの中年夫婦の家庭で、夫が汚れたお湯に浸したタオルで身体を拭いていると、奥の部屋で妻が歌う「どうしてあなたは一人で苦労を背負いこもうとするの」といった内容の歌謡曲が私たちの心を打つ。
ついに人々の抵抗も虚しく、残った人々も立ち去らなくてはならない日が来る。最後に残った家々も無惨に破壊され、生々しい傷跡をあたりにさらしている。一面に雪が積った人影の絶えた風景を無表情な顔の一人の少年が横切る。キャメラは彼の後を付いていく。彼はバラックの一つに入っていく。別の戸口から彼の父親が出てくる。路地の向いの家の残骸の中に彼は入っていく。彼あての電話が鳴っているのだ。インフラが破壊されているにも拘わらず、電話は鳴り続ける。この不条理とも言える光景を映し出したまま、映画は唐突に終わる。
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id:Godard:20040407で『ヴァンダの部屋』(ペドロ・コスタ)のお昼の回の観客がたったの7人だったということを知り驚愕する。今日見た『鉄西区』の夜の回も「少ないなあ」とは思ったが、それでも30人くらいはいたと思う。昨日、「ストローブ=ユイレとかジョアン・セーザル・モンテイロも見ておかなきゃだめだよ」とか書いてしまったが、すみません撤回します。今、この日記を読んでいるそこのあなた、もしまだこの世紀の傑作を見ていなかったとしたら、これも何かの縁だと思って、迷わず『ヴァンダの部屋』を見に駆けつけて下さい。今、日本中のスクリーンにかかっている映画の中で間違いなくこれがナンバーワンです。蓮實重彦が煽動している映画は見ないと心に決めているあなたも、そんなことは忘れて見に行ってほしい。見たら絶対、人生変わると思うよ(いろんな意味で)。ジョー・ダンテガス・ヴァン・サントラース・フォン・トリアーを見に行くのもいいけど、これを見てからでも遅くない。またすでに見た同志諸君は職場や学校で布教活動に努め、一人でも多くの人を劇場に送り込もうではないか!成功のあかつきには、大傑作『溶岩の家』(ペドロ・コスタ)のロードショー公開やらジョアン・セーザル・モンテイロのレトロスペクティヴといった夢のような出来事ももはや夢ではなくなるのだ!
(追記)などと書いていて「アトリエ・マニューク」の4/7の日記を読んだら、向こうの状況はもっと厳しいことになっているのだった。