エレファント/鉄西区 第3部:鉄路

hj3s-kzu2004-04-08

a)『エレファント』(ガス・ヴァン・サント
最初に電柱と空が映る。雲はハイスピードで流れていき、さらに文字通り雲行きが怪しくなり、ついには真っ黒な夜空となる。遠くに街灯が灯っているだけだ。次のショットはおそらく車窓から仰角で撮られた流れていく街路樹。次に頼りなげによろよろと低速で進んでいく自動車を後ろから居心地の悪い奇妙な俯瞰の前進移動で捉えた画面が続く。おそらく運転手はラリっているか、酔っぱらっているのだろう。事実、その直後の画面でこの車を運転しているのが、金髪で色白の美しい顔だちの少年の父親であることが分かる。何か家庭に問題があるらしいことは雰囲気でそれとなく察せられるが、特に映画の中でこのことについて言及されることはない。少年は父親のせいで遅刻をしてしまい。校長室に呼び出されるはめになる。
校庭で少年たちがアメフトの練習をしている。そこで聞かれる掛声は冒頭の空のショットで聞かれたものとまさしく同じものだ。そこにベートーヴェンのピアノ・ソナタがどこからともなく聞こえてくる。そこへ体操着姿の女子の一群が画面を横切っていく。そのうちのメガネをかけた少女が画面中央に立ち止まって空を見上げる。彼女にも音楽が聞こえているのだろうか。彼女は大きく深呼吸する。その瞬間、全ての動きがスローになり、再び通常の動きに戻る。ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』や『二人の子供、フランス漫遊記』を思わせる、しかしそれらほどあからさまではなく控えめな美しいシーンだ。こうしたスローモーションは劇中、何度か使われるが、このシーンと同じくらい美しいのが、冒頭の金髪の美少年に犬がじゃれて飛びつくシーンである。さて、少女がフレームアウトすると、今度は真っ赤なパーカーが印象的な短髪の美しい少年が画面中央に入ってくる。それからキャメラは彼が歩いていくのを背後から追っていく。これ以降、この映画は基本的に登場人物の動きをフォローしていくかたちで、空間を移動していく。そのため、この映画の上映時間の間、私たちはかなりの時間、彼らの背中と後頭部を目にし続けることになる。そして彼らが言葉や視線を交わす時にはキャメラはなめらかにその周りを旋回するだろう。そしてそれは決して不快ではなく、むしろ心地よい体験だったりするのだ。
この映画には視線を交わす人物同士の切り返しショットが極端に少ない。あからさまに使われているのは、冒頭で校長室に呼び出された金髪の少年が居心地悪そうにソファに身を沈め無言でいる様子を校長が見るという画面連鎖ぐらいである。その他の多くの場面はステディカムの流麗な長回しで撮られている。こうした手法が採られているのは、少年たちの透明感、繊細さ、脆さ(それらはうつろいやすいものだ)をショットの持続によって掬いあげるためなのではないだろうか。実際、この映画の少年たちは皆輝くばかりに美しい。これは出てくる少女たちのがさつさと対極的である。ガス・ヴァン・サントの演出上の関心は明らかに彼ら少年たちに向けられているように思われる。
周知のようにこの映画はコロンバイン高校での銃乱射事件から着想を得ているわけだが、この映画で流れている時間は基本的に、冒頭の自動車のシーンの時点から銃乱射事件が起きた時点までの約十五分ほどの間である。唯一、例外なのは「犯人」であるイジメられっ子の少年とその親友のエピソードで、ここでは少年がイジメられ、銃を入手し、事件を起こす数日間が断片的に描かれる。しかもあたかも同じ一日の出来事のように配列されているので、うっかりすると見ていてそのことを忘れてしまいそうになる。そこでただちに分かることは、「加害者」と「被害者」とでは流れている時間のスピードに差があるということだ。一方は数日間の出来事が数分に圧縮され、他方では瞬間的なきらめきが画面に定着される。そして、この映画は約「十五分」という時間を複数の登場人物がその時間をいかに過ごしたかという観点から、時に同一の場面を複数の視点から、同じ場所に違う色の絵具を重ねて塗るように描いていく。例えば、廊下で金髪の少年が写真好きの少年に向ってポーズをとっているその脇をメガネの少女が走り抜けていく。この場面を、映画は三人の視点から繰り返し描くのだが、この場面が印象的なのは、その直後にメガネの少女と写真好きの少年が図書室に行ったために命を落とし、金髪の少年は校舎の外へ出たために(しかも彼は「犯人」たちと擦れ違い、警告を受けている)命拾いするからである。
さて家に戻ったイジメられっ子の少年がひとりピアノを弾いている。これはどの時点の出来事なのだろうかと私たちは一瞬混乱する。その美しい『エリーゼのために』のメロディは、教室の後ろの席で彼が悪童たちのイジメにあっている場面や食堂ので彼が何やら子細にメモを取りながら落ち着かない様子でキョロキョロしている場面(私たちは朧げに彼が何かを企んでいることを感じ始めている)を目にしているだけにとても痛々しい。親友が窓を叩いて地下室の少年に合図を送る。彼は目で入れと合図を返す。彼がピアノを弾いている間、親友(彼もまた金髪の美しい少年だ)はベッドに横たわってノートパソコンのゲームに熱中している。その様子をキャメラは正面から捉えているので、彼がどのようなゲームに熱中しているのかは分からない。ところがそのモニター画面が映し出された時、私たちはそれまでこの映画で目にしてきたものの意味合いが変容するのを感じて戦慄する。彼が遊んでいるのはシューティングゲームなのだが、このゲームが変わっているのは、標的がこちらに背を向けていて、プレーヤーは一方的にそれら標的を打ちまくる点にある。事実、標的の一人がこちら側に向って歩いている時には彼はそれを撃とうとはしない。その次にくるのはイジメられっ子の少年が突如、ピアノを弾く手を止め、ガーンと鍵盤を叩いた後に中指を突き立てる仕草を彼の背後から捉えた画面である。ここに到って「撮影(shooting)」はその隠された意味、「射撃(shooting)」を私たちに開示する。そこから悲劇まではまっしぐらである。彼らはネット通販で銃を注文し、ヒトラーについてのドキュメンタリー番組を見、到着した銃を早速、納屋で試し、校内の地図を広げ、作戦会議をする。決行の日の朝、二人は一緒にシャワーを浴びる。彼らはすでに死を決意しているのだが、一方が自分はいままでキスをしたことすらないと言う。するともう一方が自分もそうだと答える。二人は自然と唇を重ねる。そのシーンは美しい(もちろんファシズムに傾斜する美ではあるのだが、その一歩手前で踏み止まっている美でもある)。
彼らは迷彩服に身を包み、自動車の後部座席に銃火器をつめた袋を詰め込み、車をスタートさせる。その様子をキャメラは『拳銃魔』(ジョセフ・H・ルイス)の有名な銀行襲撃のシーンのように後部座席から固定画面で捉え続ける。彼らは冒頭で目にした酔っ払い運転とは異なり、確信に満ちた直線運動で車を運転している。そして私たちが気がつくのは、この映画の前半と後半に置かれた二台の自動車のシーンがおそらく物語の上ではほぼ同じ時刻に位置しているはずだということである。災厄をもたらす自動車と災厄から逃れる自動車。
校内に入った「犯人」たちは、計画にやや計算違いがありつつも冷静に殺人を遂行していく。この映画が題材にした銃乱射事件の「乱射」という言葉が想起させるイメージとはほど遠く、彼らの「射撃」は、この映画の「撮影」のように正確である。一撃必殺、という言葉を思い出したが、大抵の場合、犠牲者は一発で仕留められる。そしてやはりこの銃撃シーンにおいても切り返しは使われず、死が訪れる瞬間にあって多くの場合、「加害者」か「被害者」のどちらか一方は画面の外にいる。またここでの死の表現(例えば教室の入口の側で倒れた生徒の死体を引きずると、どす黒い血の後が床に残るといった)は実に見事なものだと言えよう。前半において叙情的に少年たちを捉えた映画は、後半に到って突如として活劇的なリズムを獲得する。そして画面は唐突に「被害者」側の一人の黒人青年の視点に切り替わり、彼が銃声の音に導かれるようにして、人々が逃げまどう校内をさまよう姿を不穏な音楽とともに背後から捉え出す。彼は人々の流れとは逆に事件の中心部へと辿り着き、廊下で校長を取り押さえている「犯人」の一人の金髪少年の背後に忍び寄る。ホラー映画でしばしば身体能力の高い黒人男性が活躍するように、ことによると彼があっさりと「犯人」を取り押さえて、この事件を収束させてしまうのではないか、という倒錯的な期待を見ている私たちは抱くのだが、逆に彼の気配に気づいた「犯人」にいとも簡単に殺されてしまう。
そしてまた赤いパーカーの少年とガールフレンドが食堂の食料倉庫に身を隠す時、やはりホラー映画でしばしば若いカップルが最後まで生き残るように、彼らもひょっとしたら…という思いを見ていて打ち消すことは難しい。フォーカスが余りにも浅いために画面の全てがぼやけ、そこへ銃を持った元イジメられっ子がゆっくりと手前にやってくる姿をやや逆光ぎみに捉えた画面を見て、ホラー映画的な演出の呼吸を感じ取っているだけになおさらである。画面手前で彼にフォーカスが合う。そこで見るのはかつての弱々しい彼ではなく、精悍な顔つきに変わった彼である。そして彼は突然、軽口を飛ばす仲間に向って発砲する。壁にそってずり落ちる少年。そして私たちは彼の心の闇の深さに一層寒気を覚える。食用肉の大きな塊が吊り下がった冷凍室に彼は歩み寄り、そこに隠れていたカップルに銃を向ける。どちらにしようかな、と彼は数え歌を歌う。キャメラはその光景を捉えたまま、そっと後ずさりする。

b)『鉄西区 第3部:鉄路』(ワン・ビン
工場地帯を結ぶ鉄道線路。この一本の線をめぐる「生態系」をこの映画の第三部は描く。そこで中心となるのは線路のすぐ側に不法に住みつき、屑拾いをして生計を立てている一組の父子家庭のバラック、そして鉄道員たちの詰め所と列車の運転室。これらによってこの作品は構成されている。
屑拾いの家庭の父親がキャメラに向って、自分の半生を語り始める。彼はかつて鉄道警察の内部監査のような仕事をしており、そのために今の場所に住み着いてから二十年ほどになるが、警察の人々は大目に見てくれるのだ。それを無表情というにはあまりにも内面を欠いたような表情の息子が煙草を吸いながら聞くともなしに聞いている。だがそうした彼の言葉とは裏腹に、何かの容疑で彼は警察に拘留されてしまう。一人きりになった息子は部屋でどこからかビニール袋を取り出して、そこにしまわれた輪ゴムで束ねられた写真の束をキャメラの前に広げてみせる。そこに写っているのは今よりも幸せだった頃の父と子の旅行先での記念写真や家を出ていったしまったかつての母親が原っぱに横たわってこちらに向って微笑んでいるスナップだ。彼はそれらの一つ一つをキャメラに向って指差していく。何時の間にかそれを説明する彼の頬に大粒の涙が垂れている。
意を決して彼はおばを伴って、拘置所に父親を保釈してもらいに行く。その帰りに三人は料理屋で食事をするのだが、泥酔した息子は初めのうちは父親を抱擁し、いかに自分が彼のことを愛しているかを言葉で現わすのだが、その言葉はいつしか父親をなじる非難の言葉へと変わっていき、店内でだだをこねる子供のように暴れだし、足がもつれて倒れたりする。この様子をキャメラは引いたポジションから感傷を交えることなく捉え続ける。
その後、何時の間にか彼らは線路脇の住居を捨て、別の土地で新生活を始めたようなのだが、彼らが何をして暮らしているのかは分からない。ただキャメラは彼らの新居の中に入っていき、一家皆でテレビ画面を見つめているらしい様子を捉え、やはり唐突に終わる。そして画面は第一部の冒頭で私たちが目にしたような動いている列車から前進移動ショットで撮られた、列車のライトで照らし出された夜の闇を映し出す。

鉄西区』東京上映会@映画美学校(4/17-18)
http://www.athenee.net/culturalcenter/schedule/2004_04/tetsunishi02.html
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『エレファント』は15:30の回に行ったのだが、平日の、しかも割引デーではないにもかかわらず、あのシネセゾン渋谷が7割ほどの入りであった。映画の主人公たちとほぼ同世代のおしゃれさんたちが多かったみたいだが、彼らの半分でも『ヴァンダの部屋』(ペドロ・コスタ)を見てくれればいいのに…
なお今日は畏友である『明るい部屋』の作家と連れ立って『エレファント』を見に行ったのだが、劇場で偶然、大学時代の同志である『明るい場所』の作家と数年ぶりに再会した。これだから映画館通いは止められない。

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