ロスト・イン・トランスレーション!

hj3s-kzu2004-04-25

a)『ポリーナは行ってしまう』(アンドレ・テシネ)
b)『ぼくの好きな先生』(ニコラ・フィリベール
c)『ロスト・イン・トランスレーション』(ソフィア・コッポラ
a) テシネも初めはこういう映画を撮っていたんだなぁ、と感慨を深くさせられる才気あふれる処女作。ゴダール、リヴェット、ガレル、ベルイマンらの強い影響が感じられる。モノクロームの画面で、冬枯れの並木道をゆっくりとこちらに向かってうつむきがちに歩いてくる若い男女を、望遠レンズで捉えたファーストショットを見て、ガレルの映画が始まるのかと一瞬錯覚する。続く画面で、枯れ野をブルーの衣装をまとったブロンドの女性がまっすぐ進んで行く様を捉えた横移動なども『内なる傷跡』あたりのガレルを想起させるが、彼女が進んで行った先に赤い衣装をまとった黒髪の女性が現れると、ガレル的な世界の中にリヴェット的な人物たちが不意に闖入してきたような驚きがある。
ヒロインのうら若きビュル・オジェがたまらなく魅力的で彼女の一挙一動に瞳が吸い寄せられてしまう。彼女は統合失調症らしく、中盤、収容された精神病院で見せられるフィルムにどうやら先ほどの対照的な二人の女性が映っているらしいのだが、虚構と現実の境目はあらかじめ失調させられていて、それも定かではない。病院では一人の看護婦が彼女に付き添っているのだが、彼女と看護婦との関係は濃密に同性愛的な様相を呈していて、『仮面/ペルソナ』のヒロインたちの関係のようだ。そして物語が進むにつれて『東風』を思わせる映画内映画に出てきた軍事的幻想が現実化され、オジェは軍服を身につけた青年(最初の方で彼女とアパルトマンに同居していた二人の男の一人だ)と愛し合う。こうして物語は混乱の度合いを深めていくのだ。
b)ご存じの方も多いと思うが、この作品で素晴らしい存在感を出している小学校教師が、「ギャラ」を巡って監督と製作側に訴訟を起こしていたのだった。なかなか感動的な作品だけにけっこう複雑な気分である。詳細は以下のURLで。
http://channel.slowtrain.org/movie/paris-cinema/paris_bn2003/paris031024.html
http://channel.slowtrain.org/movie/paris-cinema/paris_bn2003/paris031114.html
c)この作品で私たちが最初に目にするのは、ベッドの上でこちらに背を向けて横たわっている若い女性のおしりとそれを覆う薄いピンクの下着である。その生地はあまりにも薄いので、おしりの割れ目の線がはっきりと透けて見えるほどだ。しかし女性器のあたりはさらに一枚厚く生地が縫いつけられているので、それがスクリーンに映し出されることはついにない。
「翻訳の途中で失われるもの」、それはビル・マーレイがウィスキーのCMの撮影現場で体験するように、意味ではなくニュアンスであろう。そして冒頭のスカーレット・ヨハンソンのおしりの割れ目のような微妙なニュアンスの顕揚に向けて、この作品は組織されている。親子ほども年の離れたビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンのかりそめのカップルがともに同じベッドの上に横たわる危うげなショットがあったとしても、決して彼らは性交に至ることはないだろう。この作品においては「性交」はあくまでも意味の側にあり、仮にそうした事態が起こってしまうと、この二人の関係から軽やかさや繊細さといったニュアンスが失われてしまうからだ。
この作品の「国辱性」について云々するのは無意味だろう。むしろソフィア・コッポラの透明な視線は、『キル・ビル VOL.1』や『ラストサムライ』といった作品が囚われていた「日本」というファンタスムを排し、あくまでも等身大の「東京」(もちろん異邦人からの視点であるかぎり限界はあるのだが)に向けられている。したがってこの作品に描かれている日本人が一様に醜く滑稽であったとしても、そこにソフィア・コッポラの悪意を見るべきではなく、逆に私たちの日常がこのように醜く滑稽なのだと認識するべきなのだろう。満員電車でエロ漫画雑誌を読む男、ゲームセンターで太鼓を叩いたりギターを演奏したりするシミュレーションに悦に入っている若者たち、満員のエレベーターに乗る似たような顔の眼鏡をかけた中年サラリーマンたち、どれも私たちが日常、目にしているものばかりであり、私たちはそれをあまりにも見慣れてしまっているがゆえに、それをもはや醜いとも滑稽だとも感じなくなっているだけの話なのだ。それを感じるためにはちょっと日常から距離を置いてみるだけでいい(異化作用の効用とはこうしたところにある)。
では醜くて滑稽なのは日本人だけなのだろうか。ソフィア・コッポラの眼差しは同胞に対しても容赦ない。「イヴリン・ウォー」が何者なのかさえ知らずに自分の偽名に使ってしまうハリウッド女優、ビル・マーレイを目の当たりにしてはしゃぐアメリカ人のビジネスマンたち、あるいは彼と一夜を共にする女性歌手、彼らもまた「日本」という醜さの磁場に犯されきっているのだが、そのことに自らは無自覚である。ある意味、この作品はこうした凡庸さのカタログ、すなわち『紋切型辞典』のようである。唯一、彼女の断罪から免れているのはビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンの二人くらいなのだが、その二人が同じ自己啓発用のCDを聴いているという皮肉もソフィア・コッポラは忘れていない。そしてビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンが、彼女の友人だという若いクラブ通いの一団と朝までカラオケをしたりして、心を和ませることができたのも、その一団がある種、意味を欠いた表層的な存在だったからだろう。
かりそめのカップルは期日とともに解消される。二人は新宿西口の雑踏の中でそっと抱擁を交わして別々の方向へと消えていく。
この映画を見ている最中、不思議でならなかったのは例えばビル・マーレイの滑稽な場面(不自由な姿勢でのシャワー、CM撮影現場での演技など)を見ては観客が大笑いするのに、先ほどあげたゲームセンターの場面のように自らの滑稽さを鏡のように映し出す場面ではくすりとも笑わなかったことだ。私たちはこれを滑稽だと感じる感性さえ失われてしまったのだろうか。このことは先のイラク人質事件を巡る顛末の醜悪さと関係する極めて政治的な問題である。などと考えながら一人、センター街の松屋で帰りにチキンカレーを食べていると、隣の席に置いておいたバッグが大きな音を立てて床に落ちた。どうやら通りすがりに客の一人が引っ掛けて行ったらしい。侘びもなく出て行くので、コノヤロウと思い、出口の方を見ると安っぽい派手さを身にまとった若い女性だったので、つい先ほどスクリーンで見たような光景がのっぺりと現実にのびてきているようで、ああ、と思い、うんざりして何も言う気が起きなかった。つくづくこの国に暮らしているのが嫌になる。早くどこかに亡命したい。
ロスト・イン・トランスレーション [DVD]