夜よ、こんにちは

hj3s-kzu2004-05-02

a)『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ
a)『夜よ、こんにちは』というタイトルが語るように、この物語の登場人物たちは夜と昼のあわいに拡がる薄暗がりの空間の中に生きている。もちろんそれはおそらくローマ市内のアパートでの出来事なのだが、「赤い旅団」と呼ばれる若い男女たちと、彼らが誘拐して隠し部屋に閉じこめているモロ首相と呼ばれる小柄な老人は、昼夜を問わずカーテンを締め切って外からの視線を遮断しているので、時間の感覚を正確に維持するのは難しい。
彼らと外の世界を結ぶものは彼らが一日中食い入るように見つめているテレビの画面のみなのだが、それとても本来はニュースを見るためにつけているにもかかわらず、そこに映し出されるものの大半はバラエティー・ショーばかりだ。唯一の例外は図書館に勤務するヒロイン(マヤ・サンサ)で、彼女はグループと生活をともにしつつも、犯行前と同じ通常の社会生活を営んでいる。そして彼女と彼らのこの差異が、初めは同じ意識で行動していたはずの両者の間に、認識における齟齬を生じさせることになる。
ヒロインが見ることのできた「現実」を、他のものたちは見てとることができなかった。それはこの映画における視線のあり方に関わっている。密室に閉じこもった彼らが見るものは、基本的にテレビ画面と覗き穴からの監禁されたモロの姿のみである(もちろん彼らは食事を出したり、声明文を書かせたりするためにモロと対面するのだが、その際に彼らは黒マスクで顔面を覆い、一方的に自分たちの要求をこの老人に突きつけるだけだ)。一方的に見つめるだけで、相手から見られるということがない。つまり彼らは世界から切り離されているだけでなく、自分自身に対する反省の契機も欠いている。一方、ヒロインのみは外の世界と繋がっていて、そこには「見る―見られる」という関係が成立している。彼女には人間的な感情が残っていて、だからこそ老人が書いた手紙に涙を流す。
「現実」から切り離された彼らはまた「歴史」からも切り離されている。労働者階級の支持を失い、「革命」の大義も空転していくばかりだ。しかし「現実」との接点(それはまた「現実」を見ることでもある)を見失っていない彼女の夢の中に、今ではもはや裏切られ潰え去ってしまった偉大な革命の物語(レーニン)の映像が断片的にモノクロームの冬枯れの光景とともにそっと忍び込んでくる。まるで全てが悪夢だったかのように。
他のベロッキオの作品のように、この映画もまた、どこからが「現実」でどこからが「幻想」なのか、その境界はきわめて曖昧となっている。そのために実際の歴史では暗殺されたはずのモロが早朝のローマ市内を闊歩することになるだろう。それと対位法的に荒れた画面のニュース映像が彼の葬儀の模様を映し出すことになる。ヒロインに恋して、誤って逮捕される脚本家志望の青年が書いたシナリオもまた『夜よ、こんにちは』と題されている。想像力は「現実」に対して無力だったのか、それとも拮抗しえたのか。映画はその結末を宙づりにして、未来を私たちの手に委ねている。