見ることのシミュレーション

hj3s-kzu2004-05-07

a)『この世界を覗く―戦争の資料から』(ハルーン・ファロッキ
b)『アイ/マシーンIII』(ハルーン・ファロッキ
この間の『囚人を見ているのかと思った〔監獄の情景〕』、『遠くの戦争〔隔てられた戦争〕』と合せてファロッキの作品について考えてみる。
『囚人を見ているのかと思った』の冒頭で私たちが目にするものは、巨大スーパーマーケットで買い物をしている客たちが明滅する点に還元されてモニター上を移動する画面である。そしてそれが刑務所内の同様の装置と併置される。あるいは『遠くの戦争』や『アイ/マシーンIII』においては、ミサイルの弾頭に取り付けられたCCDカメラからの「見た目ショット」が提示される。それは発射され目標に命中するまでの様子を文字通りワンカットで見せてくれる。いずれの場合にあっても、視線の主体というものをほとんど感じさせることのないフラットな映像である。それもそのはず、これらの映像は通常言われるような意味での視線を介在させることのない映像だからだ。主体を欠いた視線。しかし厳密な意味においては、機械は「見る」ことはできない。それは対象をパターン化し、蓄積されているデータと照合することで、「見る」ことの代わりをする。ファロッキの映画が繰り返し描いているのは、ハイテク技術の進歩によって引き起こされたこうした事態である。おそらく彼の映画を見た時に感じるあの無機質な印象もこのことによって説明できるような気がする。審美性を徹底的に排した、機械の見た映像。それはもちろん、彼の映画がフッテージ・フィルムを多用していることとも関係しているのだが、かつての同志、ハルトムート・ビトムスキーの作品と比較してみると、ファロッキの作品の特異性がより明らかになるだろう。
フッテージ・フィルムを使っての映画づくりという点においては共通するビトムスキーは、しかし画面・音響設計の面に関しては細心の注意を払い、使用するフッテージ・フィルムの選び方や、新たに自身で撮り足す映像へのこだわりかたにおいては、ファロッキと一線を画す。そこでは厳密に考え抜かれた構図、対象との距離など、それを見るものに思わず「美しい」と感嘆させるものがある。もちろん彼は、ドイツ現代史における美とファシズムとの共犯関係について極めて意識的であり、自分の作品が美と結び付けられてしまうことを警戒している。一方、ファロッキはそのような「正しさ」にはかなり無頓着なように思われ、特に近年の作品になればなるほど映像は平板なものになっていく。ミサイル製造業者がプロモーション用に作った俗悪極まりないコマーシャル・フィルムも、監視カメラが撮った刑務所内のコマ落ちした映像も等価なものとして自分の作品の構成要素として取り入れる。もちろんそこに批評的な距離は感じられるのだが、おそらくビトムスキーであれば使わないような映像である。おそらくそこに「見る」ことをめぐる転回が生じているのだろう。ファロッキの映画の主題が、「見る」という行為が機械によるパターン認識に置き換えられていく過程をめぐるものであるのと平行して、それを表象する形式も機械的な知覚に近づいていく(もちろんそこには高度に知的な操作が介在しているのだが)。「見る」ことのシミュレーションの最新の成果が軍事・警察の分野においてまず適用されるものである以上、「見る」ことをめぐる考察は必然的に政治的なものとなっていく。ファロッキの映画がまとうのは「見る」ことのシミュレーションのさらに擬態であり、それは極めて政治的な行為である。
(追記)ハルーン・ファロッキについて日本語で読める資料としては「現代思想 2003年6月臨時増刊号 総特集 ハリウッド映画」所収のファロッキ自身による「管理する視線」というテクストと訳者による解題があるので参照のこと。