葡萄牙まつり

hj3s-kzu2004-05-26

a)『家宝』(マノエル・ド・オリヴェイラ
b)『ソフィア・デ・メロ・ブレイネル・アンドレセン』(ジョアン・セーザル・モンテイロ
c)『死人の靴を待つ者は裸足で死ぬ』(ジョアン・セーザル・モンテイロ
a)「家宝」とはよく言ったものだ。まさに家宝のような映画。優れた映画がしばしばそうであるように何度も見直すことで新たな驚きがある。今回、見直して気づいたのは、冒頭のルイス・ミゲル・シントラらのラウンジでの長い会話場面がこの物語の前提となる設定を全て言い尽くしていることや(しかし初めて見る人間には単なる老人たちのおしゃべりにしか聞こえない)、ヒロインを結婚させようとシントラらが仕組んだ夕食会での会話で「不確定性原理」(それがこの映画の原題だ)という言葉が飛び出し、それが男女の愛に関して、一方が他方を愛しても、逆がそうであるとは限らない、というような意味で使われていて、この映画の主題を一言で言い表わしていることや、全編で聞かれる弦楽曲が後半のクラブ・ミュージックと対比されていることや、ワインの収穫を祝う農民たちの踊りがやはり後半の殺し屋たちの踊りと対比されていることや、ヒロインが祈るジャンヌ・ダルク像によって最後の燃えさかる炎が導きだされてくることなど、その他様々なことが、最初見た時に気づいたが忘れていたことも含めて、気づかされるのだった。あまりにも単純であるがゆえの強さ、美しさ、豊かさをこの作品は持っているのだが、その単純さとは徹底的に無駄を削ぎ落とし考え抜かれた後に残った単純さである。そしてそのことは最新作『永遠の語らい』についても当てはまるだろう。それにしても、映画において、しばしば人が単純さを難解さと取り違えてしまうのは何故なのだろう(ゴダールストローブ=ユイレ、デュラス…)。


b)ソフィア・デ・メロ・ブレイネル・アンドレセンという現代ポルトガルの女流詩人についての映画(彼女についてはhttp://portugal.poetryinternational.org/cwolk/view/22165を参照のこと)。この映画はカール・ドライヤーに捧げられており、窓辺でノートに詩を書き記す彼女を捉えた画面は、ドライヤーの映画のような静謐さに満ちていて美しい。そしてまたこの映画は「朗読映画」である。ただ他の作品と異なるのは、この作品での朗読がしばしば邪魔されたり中断されたりする点である。女流詩人はおそらく自宅の居間でソファに座り、キャメラの正面を向いて自作を朗読するのだが、傍らには彼女の息子が座っていて、彼女の朗読する声が普段の調子と違うと言ってみたり、脇にあるレコード・プレイヤーでロックを流して彼女の邪魔をしたりする始末だ。そして彼女の朗読に砂浜や海辺の家や魚市場の映像が重なる。そして何度か彼女とその家族が海で水遊びをしている光景が挿入される。そして真っ白なノートに彼女自身の手跡でこの映画のタイトル、すなわち彼女の名が記されて、映画は終わる。
b)『わるい仲間』(ジャン・ユスターシュ)を思わせる「青春映画」。ユスターシュの作品がそうであったように、この作品の主人公たち二人組も日々を無為に過ごし女の子を口説くことばかり考えている。しかしユスターシュと同じくカール・ドライヤーに私淑していながら、ユスターシュがドライヤーの厳格さとは一見無関係な自由なキャメラワークでその処女作を撮り上げたのとは対照的に、このポルトガルの映画作家はその処女作をドライヤーに捧げただけあって、この短編第二作を新人とは思えない厳格な黒白画面で構成してみせる。しかしそれによって作品が窮屈にならないところが不思議だ。映画はみずみずしさに漲っていて、例えばルイス・ミゲル・シントラ(若い!)が公園のベンチに後ろ向きに急に飛び乗る瞬間のように、ハッとするようなアクションが炸裂する。フランスから世界中にばらまかれたヌーヴェル・ヴァーグの遺伝子はやはりここポルトガルでも根を下ろしたのだ。ジョアン・セーザル・モンテイロこそ、オリヴェイラペドロ・コスタを結ぶミッシング・リンクである。
マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画 (E・Mブックス)

マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画 (E・Mブックス)