恩寵について

a)『グレースと公爵』(エリック・ロメール
b)『クモガニとトウギョ』(ジャン・パンルヴェ
c)『恵みの映画の断片』(ジョアン・セーザル・モンテイロ
a)この作品については「ユリイカ 2002年11月号 特集 エリック・ロメール」と蓮實重彦による作品評(http://www.mube.jp/pages/critique_4.html)を参照のこと。他に付け加えるべきことはない。

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b)アンドレ・バザンに「ジャン・パンルヴェについて」(『映画とは何か』所収)という美しい一文があるのでぜひ読んでもらいたい。と言いたいところだが、現在、この書物は入手困難なので引用する。

マイブリッジやマレが最初の科学研究映画を作り上げた時、彼らは単に新しい映画技術を発明したばかりでなく、同時に最も純粋な映画美学をも創造したのだった。というのは、そこには、科学映画の奇蹟、その無限のパラドックスが見出されるからである。それらの映画のように、美学的な意図を完全に追放して、実利的、功利主義的な探究を極度にまで押し進めたところに、それに加えて映画美が生まれ、それが一つの超自然な美しさとして展開される―これが科学映画のパラドックスなのだ。どのような《空想映画》が、気管支検診という地獄への信じ難い下降を思いつき、それを実現することができただろう。そこでは、色彩による《ドラマ化》の全法則が、明らかに致命的な癌による、放恣に青みがかった不吉な反射光の中に、ごく自然に取り込まれていた。そしてまた、接眼レンズの下で、ちょうど万華鏡でも見るように、あの淡水中の極微動物たちが奇蹟的にくりひろげて見せる夢幻的な舞踊を、一体どのような光学上のトリックが作り出すことができただろう?どのような天才的な振付師がどのような錯乱した画家が、どのような詩人が、このような配列と形体とイメージとを想像することができたろう?最高の美が、同時に自然とも偶然とも―すなわち、ある種の伝統的な美学が芸術とは正反対のものと見なしているすべてのものと―一致する、そのふしぎな世界の扉を開ける扉を、カメラだけが持っていたのだ。確かにシュルレアリストたちだけは、すでにその世界の存在を予測していた。彼らは、彼らの想像力のほとんど没人格的なオートマティスムの中で映像の工場の秘密を探っていた。だがタンギーも、サルヴァドール・ダリも、あるいはブニュエルも、今は亡き医師ド・マルテルが、複雑な開頭手術を実施するために、卵の殻のようにつるつるに剃った裸の襟首の上に前もって一つの顔のスケッチを描き、彫り込んでみせた、あの超現実的なドラマには、どうしても遠くからしか近づくことができなかった。その映画を見たことのない者には、映画が一体どこまで進むことができるかわからないだろう。
ジャン・パンルヴェが、フランス映画の中で特異な特権的地位を占めているのは、彼が、最も熟練した開頭手術は二つの交流不可能な絶対的な公準を―すなわち、ひとりの人間を救うということと、ユビュおやじの脳髄摘出器を具体的な形で示すということとの二つの公準を―同時に実現することができるということを、充分に理解していたからである。たとえば彼の『吸血蝙蝠』は、動物学上の記録であると同時にムルナウが彼の『吸血鬼ノスフェラトゥ』の中で描いた残忍な大神話学の完成でもあった。この、目もくらむような映画的真実が、一般に人々の耐えうるものであるかということは、あいにくと確かではない。それは、芸術と科学とについての世間に流布している観念に比べると、あまりにも人の顰蹙を買うような内容を含んでいる。『淡水の殺人者たち』における水中の小さな惨劇を解説するジャズの音楽に対して、街の映画館の観客たちが、まるで汚らわしい冒涜行為を見た時のように抗議したのは、そのためなのだ。国民の叡智なるものが、両極端が一致する時、そのことをいつも認めうるとは限らないというのは、これほどに本当なのである。(小海永二訳)

他に付け加えるべきことはない。
c)別名「聖家族」と呼ばれる映画。もちろん「聖家族」とはキリスト教におけるヨセフ、マリア、イエスの聖なる三角形であると同時に、マルクスエンゲルスの著書の題名である(そういえばマルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』のヒロインもこの本を読んでいた)。そしてこの映画にもこの二重の意味が込められていると思われる。今なら核家族とでも呼ばれるだろう「家族」の最小単位はもちろんそれだけで閉じられた領域を形成しているわけではなく、そこには政治的、経済的、社会的、思想的、文化的、その他さまざまな線が走り抜けている。若い夫婦とその幼子。この映画は十に満たないワンシーン=ワンショットから構成されているが、父親と子供が戯れる午後の穏やかな光に満ちた幸福感あふれる場面とは対極的に、夫婦の寝室の場面では重苦しい沈黙がその場を支配する。あるいは、妻の両親が彼らの家を訪問しても、夫は奇妙な豚のお面を付けてテーブルの上に四つん這いになって身じろぎもせず、妻とその両親が、働かずに家でぶらぶらしている彼の事を非難しても何も答えず、幼い子供は両者の間をうろうろとするばかりだ。この緊張感に満ちた長回しの場面はついに義理の父母に向って唐突に飛びかかる彼のアクションによって終りを迎える。彼は病んでいるのだろうか。逆に私たちはドゥルーズ=ガタリとともにこう問い返すこともできる。病んでいるのは社会の方なのではないかと。優れた映画作家は意識せずとも「時代閉塞の現状」をフィルムの表層に刻み付けてしまう。1972年に撮られたこの映画は同時代の『東風』(ジャン=リュック・ゴダール)や『花婿、女優、そしてヒモ』(ストローブ=ユイレ)、あるいは『煉獄エロイカ』(吉田喜重)、『東京戰争戦後秘話』(大島渚)などのように分裂症的な様相を呈しているが、それはそのままその時代における閉塞感でもある。そして一発の銃声がこの悲喜劇を終息させる。