陰謀と共犯者

a)『スピリチュアル・コンストラクション』(オスカー・フィッシンガー)
b)『デュエル』(ジャック・リヴェット
c)『発禁本―SADE』(ブノワ・ジャコー
a) 人が豹になり、ボールになる。玄関が顔になり、人を吐き出す。ベッドの脚が伸び、人を載せたまま歩き出す。この戦前のドイツの影絵アニメはユーモラスに世界の潜在性と生成変化を垣間見せてくれる。
b) 陰謀(complot)には共犯者(complice)が必要だ。今回のリヴェット的陰謀の真の共犯者はビュル・オジェやジュリエット・ベルトといったリヴェット映画の常連ではない。確かに彼女たちは魅力的でスクリーンから眩いばかりの光を私たちに向けて放っている。しかしそれに騙されてはいけない。画面を注意深く眺めてみよう。どこかに真の共犯者が物陰に身を潜めているかもしれない。見つけられただろうか。そう、それはあの小柄な白髪のピアニスト、ジャン・ヴィエネールである。何故か、この映画の室内空間には隙さえあれば至る所にピアノが置かれてあり、そこには決まって彼がちょこんと私たちに背を向けて座っているのだ。表向きは怪しげなダンスホールのミュージシャンとして生計を立てているらしいこの老人は、まさに神出鬼没という言葉がぴったりだと思われるほど、ホテルのロビー、闇カジノ、果ては水族館にまで現れては、即興でその場のエモーションに相応しい旋律を奏で始めるのだ。通常の映画音楽は別録されて、後でシーンにダビングされるものだが、この映画におけるリヴェットの野心は、ルノワール、ベッケル、ブレッソンと錚々たる名前がそのフィルモグラフィーに並ぶこの偉大な映画音楽家を画面の隅にそっと紛れ込ませて、例えばサイレント映画を見ながらピアニストがその場で音楽を付けていくような具合に、この老人にそのシーンの雰囲気を背中で感じ取ってもらい、同時録音で一気にそのシーンの音楽まで手に入れてしまおうとすることにある。したがって彼が音楽を演奏しているシーンは原則としてワンシーン=ワンカットで撮られており、ときおりインサートが入るにしても厳密に撮影時の時空間の連続性は保たれている。彼が画面に見えない時でもフレーム外で彼が演奏していることは、そのピアノの音が周囲の音に包囲されていることから容易に想像がつく。黒いコスチュームに身を包み、メガネをかけた、このどこか『吸血鬼』(カール・ドライヤー)の吸血鬼を思わせる風貌のピアニストが唯一、キャメラの方を向く瞬間がある。それは夕方の斜めの光がさす鏡張りのスタジオでジュリエット・ベルトが魔法の宝石の在り処の鍵を握る女性に催眠をかけるシーンである。彼女たちの動きに合わせてパンをしたキャメラが、椅子に斜めに腰掛けこちらを向いたピアニストを一瞬、画面に収めてから、そのまま回転運動を続けて彼女のやり取りを収めた後、再び彼を画面に映し出す時、彼はもはや横顔をこちらに向けている。彼は平静を装って演奏しているのだが、もはやこのショット以降、私たちが彼の姿を目にすることはないだろう。物語はクライマックスへと向けて加速していき、画面外からはピアノの旋律ではなく、不穏な電子音楽が聞こえてくるのみだ。
とはいうものの、これだけ美しい女優たちに囲まれて映画を撮るのは楽しくてしょうがないだろうなぁ…特にビュル・オジェの侍女を演じたエリザベス・ヴィエネールの美しさといったら!黒いマントに身を包んだ彼女はまるで女吸血鬼である。
c) ダニエル・オートゥイユが演じるとサド侯爵も常識人のように見える。この映画のサド侯爵は「悪徳」という言葉が醸し出すイメージからは限り無く遠く、むしろ周りの人間の方が調子を狂わされていく。かといって彼が特に何かをしたわけではない。嫉妬と情慾に駆られて鞭を振るうグレゴワール・コランに向ってマリアンヌ・ドニクールは、サドは一度も彼女にそんなことはしなかったと言い放つ。彼はただ書いたのだ。しかし作家を主題としていながら、そのエクリチュールをまともに扱おうとしないブノワ・ジャコーの姿勢には首を傾げざるを得ない。しかしながらあの下品きわまりない『トスカ』よりは、こちらの方が映画としていくぶんか品格がある点は評価したい。もっともサドの文学に真正面から取り組むと『ソドムの市』(ピエル・パオロ・パゾリーニ)のようになってしまうのも考えものだ。あれはちょっと破格すぎる。むしろ『黄金時代』(ルイス・ブニュエル)、『女地獄 森は濡れた』(神代辰巳)を薦める。
余談だがこの作品の予告編で、サドが庭師の若者を奮い立たせるために、彼に鞭打たれるショットの次に「サドはマゾだったのか?」という惹句が入ったのには大爆笑した。