見ザル聴カザル

hj3s-kzu2004-06-07

a)『ヒア&ゼア・こことよそ』(ジャン=リュック・ゴダール&アンヌ=マリー・ミエヴィル)
b)『うまくいってる?』(ジャン=リュック・ゴダール&アンヌ=マリー・ミエヴィル)
a) この映画の単純明瞭さを決して「難解さ」と取り違えてはならない。見ることと聴くこと。全てはこのことに尽きる。そしてさらにそれによって掴んだ映像と音響を各自が並べてみたり重ね合わせてみたりすること。モンタージュ。そして一つの映像、一つの音響は必ず、他の多くの映像、他の多くの音響を隠してしまうことに留意する必要がある。例えばテレビニュース(なぜ重要法案は決まって高校野球のシーズンに審議されるのか)。あなたはヒロシマで何も見なかった。ヴェトナムでもパレスチナでもアフガニスタンでもイラクでも…「こことよそ」とは、パレスチナとフランスを単に意味するのではない。映画館と日常生活の場を線で繋ぐこと。あるいは映画によって鍛えられた目と耳を現実に送り返すこと。テレビのスイッチを消そう。そして自分の頭で考えよう。あるいはデカルトのひそみにならってこう呟いてみるのもよい。われ疑う、ゆえにわれあり。
b) 休憩を挟まずにこの映画を『ヒア&ゼア・こことよそ』に続けて上映したアテネフランセ文化センターの英断にまず敬意を表したい。『ヒア&ゼア』の文字が明滅するコンピューターの画面のラストショットのすぐ後に間髪入れず、この作品のファーストショットである同様の画面がスクリーンに映し出されたのを目にした時、これが紛れもなく『ヒア&ゼア』の続編であることを瞬時に視覚的に理解させられた。あるいはまどろみつつこの作品を見たid:gashowが言ったように、この二本の作品を一本の「二時間半の大作」として見ることもできるだろう。実際、前作で提示された「見ること、聴くこと」のテーマはこの作品においてさらに徹底的に深化されている。一組の男女(男は旧左翼、女は新左翼という役割を与えられている)が、あるビデオ映像を巡って論議を重ねる。男が撮った安易な映像は、女によって問いただされ、吟味される。ある映像の後になぜある映像が続くのか。あるいはある音響と沈黙との関係。これらの問いに結論はなく、映画は「進行中の作品(work in progress)」の様相を呈しはじめる。その意味でこの映画は私たちに向って開かれており、この思考を引き継いで自ら映画を撮る、あるいは映画について考える(そしてそれは現実について考えることでもある)という課題が私たちに残されることになる。