映画は教えられない

a)『南』(シャンタル・アッケルマン
b)『不実な女』(クロード・シャブロル
b)「不実な女」あるいは「不貞な女」などこの映画のどこにも出て来ない。もしステファーヌ・オードランがそのように見えてしまうとしたら、それはこのフィルムの構造の効果である。それはまた「まなざし」の効果と言い換えてもいいわけだが、その「まなざし」とは、彼女を見つめる夫の「まなざし」でも、あるいは彼らを見つめる私たちの「まなざし」のどちらでもなく、敢えて言えば行方不明になったジグソーパズルの一片から眺められた「まなざし」のようなものである。彼女が不実に見えるのは、彼女が、ある「透明な幕」を通して見られるからである。私たちが彼女に対して最初に疑惑をもった場面のことを思い起こしてみよう。彼女は夫が一瞬姿を消した隙を狙って愛人に電話をかけていたのだが、夫にその姿を見られてしまう。しかしその時点ではまだ夫は彼女に対して疑惑を持っておらず、ある日常的な光景であるはずの場面のほんの些細な細部にある徴候を感じ取っているのは、もっぱら私たちの方である。ではその時、夫が手にしていたものは何だったかというと、周知のように母親が居間に忘れていったメガネである。あるいは妻に疑惑を感じ始めた彼が雇った探偵の姿を思い出してみれば分かるように、その顔にはメガネがあった(彼は劇中メガネをかける唯一の人物である)。そして一家団欒のテーブルに置かれたテレビモニターに映っていたものは、何故か沢山のガラス細工の無意味な映像であり、「不貞」の現場を目撃する夫が逢い引きをする妻とその愛人を離れたところから見つめる時、両者の間に介在していたのは天気雨と呼ばれる透明な液体である。さらに決定的なことには夫が妻の浮気相手の部屋に入っていく様子は透明なガラスドア越しに撮られているのだ。つまりこういうことだ。ある「透明な幕」を通り、一人の女を捉える潜在的で非人称的な視線があらかじめ存在しており、その線と私たちの視線あるいは彼女の夫の視線が重なりあう時、彼女はある「歪像」として私たちあるいは彼女の夫に与えられる。そしてその非人称的な視線とは、私たちの視野の外へと様々に位置を変え、私たちを見つめ返している「もの」たちの視線、つまり巨大なライターやジグソーパズルの一片の視線であったりするのだ。