再現

a)『再現』(テオ・アンゲロプロス
a) 朝からアンゲロプロス。ほとんど寝に行くようなものだが、睡眠時間が四時間にも拘わらず大丈夫だった(しかし気が付くと瞬きをしていたはずの瞼がそのまま閉じられていた瞬間が数回あったので、何ショットか見落としていると思う)。といってもアンゲロプロスをおとしめているわけでは決してなく、『旅芸人の記録』から『霧の中の風景』にいたる傑作群は自分の映画体験(というほど大したものでもないが)の中で大切なものであり続けている。一方、『こうのとり、たちずさんで』以降の作品に関しては手放しで絶賛するわけにはいかず、やや後退というか弛緩しているような印象を個人的には受ける。蓮實重彦氏によってかつて「73年の世代」と呼ばれた作家たちの中でこれと似た印象を受けるのがヴィム・ヴェンダースである。ビクトル・エリセダニエル・シュミットクリント・イーストウッドがそれぞれのペースで傑作を撮り続けているのに対し、アンゲロプロスヴェンダースは1989年あたりを境にして低迷を始め、今なお低迷しているように思えてならない。乱暴に要約してしまえば、この二人は「ボーダー」をめぐる作品を撮りつづけてきた作家であったわけで、その「ボーダー」とは端的に言えばとりもなおさず冷戦体制化での東西の境界線の隠喩である。1989年のベルリンの壁崩壊からソ連崩壊へといたる流れの中で「ボーダー」は少なくともヨーロッパにおいては至るところで希薄化していった。このことが、「ボーダー」という否定性に対峙する緊張感とともに強靱な作品を撮りつづけてきた映画作家にとってどれほどの意味を持つかは想像に難くない。逆に、エリセ、シュミット,イーストウッドらの映画作りはそのような動機づけに支えられていなかったがゆえに、今もなお彼らは「ゾンビ」のように生き延びているのだとは言えまいか。それを象徴しているのが『こうのとり、たちずさんで』のあの片足立ちの姿勢であることは言うまでもない。最もこの作品にしても、マルチェロ・マストロヤンニジャンヌ・モローの再会シーンに登場するあの醜いテレビモニターによって、そのぎりぎり保たれていたはずの緊張感がふいに弛緩していくのだ。思えば、アンゲロプロスはあの片足立ちの姿勢を堪え続けることができなかったのだろう。以上の「仮説」はいずれきちんと検証してみたいと思う。
前置きが長くなったが、『旅芸人の記録』以降の彼のフィルモグラフィーの中では『狩人』を偏愛し、この作品こそが彼の最高傑作と信じていた私にとって、『再現』はその確信を大きく揺さぶるような傑作だった。図式化してしまえば、『旅芸人の記録』から『蜂の旅人』へと到る過程で徐々に集団から個へと映画作家の関心の対象が移っていき、『霧の中の風景』でそれが決定的になり、それを扱うショットも、ロングのワンシーン=ワンショットから、ミディアム、バストさらにはクローズアップへと変化していき、それに伴い、一つのシークエンスを構成するショットが増加していく、というのが彼の作品のフォルムの変遷だったと思う(もちろんこれには例外があり、依然、近年の作品でも彼のスタイルを特徴づけるワンシーン=ワンショットはここぞという場面で使われている)。例えば『霧の中の風景』の雪の場面での主人公たちのクローズアップ(だったと思う)に驚かされた記憶はないだろうか。思えばそうした図式化は『再現』を知らなかったことによる無知に過ぎなかったのだ。この傑作においては後の彼の作品を特徴づけるような要素はほぼ出揃っている。ただしあの時空間を圧縮したようなワンシーン=ワンショットだけがまだ顔を見せていない。
雨が降る中、遠くの方から砂利道を一台のトラックがやってくる。あたりは薄暗いのでヘッドライトが点灯している。中景に大きなぬかるみが出来ていて、そこにタイヤを取られてしまいトラックは止まってしまう。この冒頭のロングショットを見ただけで期待が高まる。と同時に彼の作品を見なれている私たちに取っては親しみのある光景でもある。しかしそこでカットが割れて、運転席から飛び出す男たちと、それに続いて彼らがぬかるみに大きな石を次々と放り込むショットを目にした瞬間、それまで知っていると思っていたはずのアンゲロプロスという映画作家が未知の存在に変貌していくのを体験するだろう。しかもその寄りのショットは手持ちキャメラで撮られてすらいるのだ。この驚きは作品の最後に到るまで持続する。私たちは心地よく裏切られていくのだ。物語は他愛のないものである。外国への出稼ぎから戻ってきた夫を妻とその愛人が殺してしまう。彼らはその死体を庭先に埋め、偽装工作をするのだが、ついには警察によって犯行が暴かれる。作品は、彼らが犯行を自供した時点から、そこに到るまでの過程を時制を交錯しながら描いていく。二人が逮捕され警察のトラックの荷台に乗せられるシーンで、彼らに向って「人殺し」と叫びながら、トラックの後を追いかけていく村びとの女性をトラックの荷台から捉えた手持ちのショットはロッセリーニの最良の瞬間を思い起こさせる。そういえば冒頭の雨はどこか『神の道化師フランチェスコ』で降っていた雨を連想させなかっただろうか。ロッセリーニ的な映画作家としてのアンゲロプロス、これもまた私たちにとって未知の輪郭である。実は、冒頭のトラックには、殺される運命にあることを知らない夫が乗客として乗っていて、その後、帰宅した彼が妻子と一家団欒で食卓を囲む時、それを捉えるショットがそれまでの持続を断ち切るかのようなストップモーションとなり、タイトルが被さるのだが、そこには何か不穏な空気が漂っていて、彼の姿を目にすることはもうないだろうという予感におそわれる。実際、彼の姿を再び目にするのはラストになってからなのだが、そこで彼によってキャメラの前にどさりと放り投げられた鋤は人影が絶えた後もなお禍々しい存在感を私たちに向けて放っている。
テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX I (旅芸人の記録/狩人/1936年の日々) テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出) テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX III (霧の中の風景/蜂の旅人/アレクサンダー大王)