パート2

hj3s-kzu2004-07-15

a)『パート2』(ジャン=リュック・ゴダール
a)愛と労働、あるいは家族と工場についての映画。老夫婦、若夫婦、その幼い息子と娘、この三組のカップルが同居している。お色気ムンムンの若い妻は、何故か家の中では全裸に白いバスローブといういでたちで、アイロンをかけたり、踊ったり、老父と会話したりする。この家族はヌーディストなのか?と思いたくなるほど、皆、キャメラの前に裸体を、そして性器をさらす。もちろんそれは当時のゴダールの問題意識に基づいた演出なわけだが、若夫婦はともあれ、老人たちや幼女がそういうふうに撮られているのを見るのは痛々しい。唯一、裸体をさらさないのは幼い息子だけで、だからこそ彼はあんなにも独りぼっちなのだろう。「孤独」という字幕が入った後で、食卓に寂しそうに座っておやつを食べている彼に向って、母親が例のバスローブ一枚の格好でくるくる周りながら、娘と一緒に彼をからかうのだが、彼は見向きもしない。何かが「うまくいってない」。大人たちは皆、神経症を病んでいるようだ。高度資本主義社会における労働者の抑圧された状態?そのためか、若夫婦の性生活も「うまくいってない」。自分の性器を奮い立たせようとする若い夫、それを手伝う妻。彼女は自分の手で、あるいは唇でそれを愛撫する。しかし結果は失敗に終わる。時々、キッチンで後背位で性交をしている若夫婦の下半身だけの映像が何度か映る。それを見ていると思われる娘の顔のクローズアップがそれにオーバーラップされる。夫はどうやら妻が浮気したことを知り、その事実に興奮したようだ。あるいは若夫婦が全裸で寝そべって、子供たちに「性教育」する。女性器を指差し「これが唇」と言う母親に対し、娘が「しゃべらないの」と尋ねる。それに答えて曰く「愛の言葉を語るのよ」。あるいは元左翼活動家だったらしい老父はやはり全裸にシャツという格好でキャメラに向って、ウィスキーをちびちびやりながら活動家時代の思い出を語る。話し終えると彼は股間をぎゅっと握る。このように家族は政治的・経済的・性的な線によって横断されている。それら全てはテレビモニターに映し出され、映画はそれを再撮影した画面によって構成されている。さらにスタジオでそれらの映像と音響を操作するゴダールの姿がこの映画を枠付ける。
なお、奥村昭夫氏によるこの映画の採録が「イメージフォーラム」81年1月号に掲載されているので参照されたし。
Numero Deux [VHS] [Import]