黄色い家の記憶

hj3s-kzu2004-08-06

a)『水俣―患者さんとその世界』(土本典昭
b)『水俣レポート1 実録公調委』(土本典昭
c)『黄色い家の記憶』(ジョアン・セーザル・モンテイロ
d)『管理の終わり』(ジョアン・セーザル・モンテイロ
c)独身者の身体、それも五十過ぎの痩せぎすの男の。これを映画作家自身が演じている。彼は特異な性的嗜好を持っており、同じアパートに住む商売女が入浴したすぐ後に共同浴室に入り、その残り湯を啜っては奥歯に引っ掛かった彼女の陰毛をコレクションしたり、まだ二十歳前の大家の娘の着替えを忍び足で鍵穴から覗きにいったりするのだ。しかし端正な画面で撮られているせいだろうか、あるいはモンテイロが演じているせいだろうか、これらの行為は醜さよりは滑稽さが感じられる。彼の住む部屋は『抵抗』(ブレッソン)の独房のように殺風景で、机と椅子と小さな棚の他には、ベッド寄りの壁に軍服を着たシュトロハイムのポスターが貼ってあるだけだ。彼の老いた母親は掃除婦をしているのだが、彼はたまに会いに行ったかと思うと、小遣いをせびり、財布から紙幣を取り出した彼女に残りの小銭まで全部出させ、ろくに会話をかわさずに彼女の額にキスをしてとっととその場を去ってしまうような極道息子ぶりである。母親が痛む背中で苦労して稼いだなけなしの金なのに。この描写、人間観には凄絶ささえ感じる。そしてその金を彼は遊興に使ってしまうのだ。たまたま寄ったキャバレーで彼は同じ下宿の商売女と出会い、情人を逮捕された彼女が飼い犬の処分に困っていたのをきっかけに二人は親しくなり、雨の日の彼の誕生日に誕生祝いと称して彼女は自分の肉体を彼に捧げるのだが、翌日、彼女は死んでしまうのだった。彼女の部屋からナイフと人形を盗み出した彼がその人形の腹を裂くと彼女の貯金していた札束が出てくる。その金で彼は大家の娘に援助交際を申し出るのだが、清純な彼女がてんで取り合わないので、彼は彼女を押し倒し、シャツを引きちぎって彼女の胸を剥き出しにしたちょうどその時、大家に現場を押さえられ、脱兎のごとく逃げていく。ホームレスになったりした後、彼は何故かモノンクルをし、軍服のマントを翻し、乗馬用の鞭を手にして、シュトロハイムよろしく街を闊歩するのだが、当然のことながら警察に連行され、尋問を受ける。持っていたナイフで人形の腹を裂いたことや自分は左翼知識人だのと正直に答えたために狂人あつかいされ、彼は精神病院に送られる。そこで彼のことをずっと待っていたというやはり狂人のルイス・ミゲル・シントラのおかげで(彼が「行け!」というと何故か神々しく門が開くのだ)、そこを脱出することができた彼は、リスボンのマンホールから吸血鬼ノスフェラトゥのように這い出してきて、夜の街へと消えてゆく…なおこの作品は、『悲情城市』(侯孝賢)が金獅子賞を取った1989年のヴェネチア国際映画祭で、銀獅子賞を取っている(しかも審査員特別賞は『そして光ありき』(イオセリアーニ)である)。何の間違いか『千利休 本覺坊遺文』(熊井啓)も同時受賞なのだが、それはさておき、当時、どこかの配給会社がこの作品を輸入公開してくれていたならば、日本の映画をめぐる環境も今と変わっていたのではないかと思うと残念である。私たちがオリヴェイラをはじめとするポルトガル映画を「発見」するのはその五年後だし、モンテイロの作品に至ってはその十年後である。ところでこの作品のDVDはスタンダード・サイズで収録されているのだが、何故か特典のインタビュー映像に出てくる抜粋はヴィスタ・サイズなのだった。どうも見た印象ではフレームの上下に無駄な空間があるような感じでヴィスタの方が正しい気がするのだが、実際のところどうなのだろうか。
d)モンテイロらしさ全開の短編、つまりエロ全開ということ。「フェルナンド・ペソア」を名乗る映画作家(モンテイロ本人が演じている)が、映画を撮るためにオーディションをし、プレイメイトみたいな女たちとテスト撮影と称して戯れたり、街路で激写したり、秘書のスカートを手鏡で覗いたりする。そして彼の性的妄想の中では探検隊みたいな格好をした彼と女が平原を彷徨う。最後はその女がシャツの胸をはだけ、彼女のブラを付けた胸にズームして終わる。話らしい話はない。彼の長篇映画にはオブセッションのように必ず若い娘の裸の胸のショットが出てくるが、テレビ用に作られたためだろうか、この作品には裸身までは出て来ない。なおモンテイロは、ポルトガルを代表する詩人フェルナンド・ペソアについての短編を撮ると偽って、この企画を通したそうだが、そういえば彼がモデルを激写しているのはペソアの銅像の前だった。IMDbなどのフィルモグラフィーを見ても、この作品が載っていないところをみると、お蔵入りになったものと思われる。

ペソア詩集 (海外詩文庫)

ペソア詩集 (海外詩文庫)