アデュー・フィリピーヌ!

hj3s-kzu2004-08-21

a)『人間ピラミッド』(ジャン・ルーシュ
b)『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジエ
b)この作品の上映前に蓮實重彦氏による講演があった。『子猫をお願い』(チョン・ジェウン)についての評でも触れられていたように、蓮實氏によれば、全ての映画作家は二通りに分類することができる。つまり相対的な処女作を撮ってしまった映画作家と絶対的な処女作を撮ってしまった映画作家とにである。例えば『勝手にしやがれ』(ゴダール)は映画を見てしまったがために撮られた映画であることが透けてみえるがゆえに相対的な処女作に過ぎない。そして他の多くの凡庸な映画作家というのはこの部類に属する。では絶対的な処女作とは何か。それはこの世に映画など存在しなくても間違いなく撮られたであろう作品である。『夜の人々』(ニコラス・レイ)、『一瞬の夢』(ジャ・ジャンクー)、『子猫をお願い』(チョン・ジェウン)など数少ない作品がこの栄誉に浴する。そしてこの『アデュー・フィリピーヌ』もそうした作品に他ならない。これの作品はこれ一本で映画史全体と拮抗しうるだけの強度をそなえている。「ヘーゲルが仮に存在しなかったとしても、ドイツ人はヘーゲル主義者であったろう」というニーチェ箴言をもじって言えば、「映画が仮に存在しなかったとしても、彼は映画を撮ったであろう」というのが、こうした映画作家の定義である*1ロメール1920年生)とゴダール(1930年生)のちょうど中間の世代であるジャック・ロジエ(1926年生)のこの作品にはいくつかの特徴がある。第一にそれは「テレビ」の世界を題材にした最も初期の映画であるということ。テレビ局でケーブル捌きをしている主人公の若者は自らをキャメラ・オペレーターと偽ってヒロイン二人と仲良くなるが、この作品にはテレビ初期の活気が喧噪とともに描かれている。劇中劇でミシェル・ピコリジャン=クロード・ブリアリの姿も一瞬映るが、これなどはヌーヴェル・ヴァーグの連中がやったお遊びの一種である。第二にここでは「兵役」の問題が扱われているということ。ヌーヴェル・ヴァーグの世代にとってこの問題は実存的な関係をもっている。ゴダールはフランスとスイスの二重国籍をうまく利用して兵役から逃れたし、トリュフォーは脱走兵であった。そしてストローブは懲役忌避のためにドイツへ亡命し、さらにイタリアへと拠点を移す過程でヨーロッパ人としての自己に目覚めることになる。そしてジャック・ロジエもこの問題と無縁ではあり得なかった。この作品の前年に終結したとはいえ、物語の背景にはアルジェリア戦争(1954―1962年)が大きな影を投げかけている。主人公にとっていったん戦地に送られてしまえば、何時戻って来られるとも分からない生死の問題なのである。そして第三にこれは「音楽映画」であるということ。世界で一番美しい言語、それは紛れもなくイタリア語である。『映画史』(ゴダール)のイタリア映画を扱った章の最後で流れるカンツォーネのようにイタリア語にはそれを耳にするものを武装解除してしまうような叙情性と音楽性がある。ゴダールが行った試みの素描のようなものをこの作品の後半のコルシカ島の場面で見ることができる。美しい風景の中、突然高らかに流れるカンツォーネを耳にしてからはずっと蓮實氏は涙が止まらなかったという(ちなみに彼は初公開当時1800人しか入らなかったというこの作品の観客の一人である)。さてこの作品の題名は、実の二つ入ったアーモンドを食べる時に仲間と二人で分け合い、次に会った時に相手に先に「こんにちは、フィリピーヌ!」と言った方が勝ちという遊びに由来するが、このアーモンドのように何でも二人で分け合う(彼氏さえも!)双子のようなヒロインたちを演じた女優や主人公を演じた青年はその後、他の映画で有名になるということはなかったが、彼らの生の一瞬の輝きがこの作品には定着されており、ルノワールの作品のようにそれがこの映画の魅力の一部を形づくっている。そして何よりこの映画には誰もが忘れられないような決定的なショット(その悪い例が『第三の男』のラストショットである)というものが存在せず、それが美点でもある。ここでは被写体とキャメラとの関係性が全てなのであり、技術的に多少うまくいっていないショットがあったとしても、そんなことは二の次なのである。まさに一瞬一瞬がそのつど生成されていくのであり、映画史でこれに近いものを探すならロッセリーニの作品がそれに当たるだろう。ところでジャック・ロジエについて蓮實氏が思い出すエピソードとして、今から四十年前にゴダールが初来日した時、彼はゴダールの通訳をしていたのだが、ゴダールに「ジャック・ロジエは新作を撮らないんですか」と尋ねたら、「『アデュー・フィリピーヌ』を撮っている」と答えたと言う。「それはすでに撮ったじゃないですか」となおも尋ねると「ドイツ語(吹き替え)版を撮っているんだ」と答え、「一つの作品に賭ける彼の熱意がお前には分かるか」と逆に尋ねられたので、「何となく分かる気がする」と氏が答えると、「忘れずに覚えておけ」とゴダールは言ったそうだ。また2001年に蓮實氏がヴェネツィア国際映画祭コンペティション(現代映画部門)の審査委員長を務めた時、ジャック・ロジエの最新作『フィフィ・マルタンガル』が出品されており、見る前から何としてでもこれに賞を与えるつもりでいたが、見た後(『アデュー・フィリピーヌ』に比べるとやや弛緩してはいるが、それでも素晴らしい作品だったとのこと)、他の審査員たちに各自が推す作品を聞いたところ、ロジエに投票していたのは蓮實氏ただ一人で、その昼食の席上でその場にあったナイフで脅してでも彼に賞を与えるべきか躊躇したのだが、結局、「大人」な判断でロジエの作品については何ごともなかったかのように触れないことにし、心の中でロジエに謝ったそうだ。そうでもしないと蓮實氏の中で『アデュー・フィリピーヌ』との関係が崩れてしまうような気がしたからだという。さて最後に『アデュー・フィリピーヌ』の見どころを一つ、見ている間にところどころ眠りそうになっても、どうかこの場面までは目を開けておいてほしい、と蓮實氏は言う。それは兵役に向う若者とヒロインたちが別れる場面で、凡庸な監督だったら船上の彼と波止場の彼女たちを交互に切り返しで処理するところを、ロジエはそうしない。そして船が岸を離れていくのを追うように彼女たちが手を振りながら駆け出す瞬間をどうか見逃さないでほしい。映画史において後にも先にも走る行為がこのように撮られたことはない。そして実はこの場面は映画のラストなのである。
さて明日(8/22)も『アデュー・フィリピーヌ』の上映があるが、この作品が日本語字幕つきで見られる機会はおそらく今後ないだろうから、絶対見逃さず、今日のように会場を満席にしてほしい。また『ラスト・ダイビング』(ジョアン・セーザル・モンテイロ)と『溶岩の家』(ペドロ・コスタ)の二本のポルトガル映画も傑作なので絶対に見逃さないようにとのこと。

*1:これはもちろんゴダールニコラス・レイについて言った「かりに映画がもはや存在していないとしても、彼には映画を発明し直すことができる、それどころか、彼は映画を発明し直そうとするはずだ」という発言を踏まえている。