hj3s-kzu2004-10-01

a)『水で書かれた物語』(吉田喜重
b)『フォッグ・オブ・ウォー』(エロール・モリス)
a) 松竹時代とATG時代に挟まれた時期の、『水で書かれた物語』から『樹氷のよろめき』にいたる吉田喜重の作品群を特徴づけるのは、「性的不能の身体」という主題である。これは特に『情炎』『炎と女』『樹氷のよろめき』の三部作において明確な形をとり、いずれもそれは木村功によって演じられている。図式的にはブルジョワ階級の女としての岡田茉莉子を挟んで、いかにもたくましい男性と性的不能者が対置され、前者は多くの場合、彼女より下の階級に属し、後者は彼女と同じ階級に属する人間である。岡田は両者を同時に愛するが最終的には性的不能者とともに生きることを選択するという物語的構造を持っている。『水で書かれた物語』においてはまだこの構造は明確な形を取るにはいたらず、病身の岸田森によって性的不能が暗示的に示されているにすぎないが、『情炎』の岡田の夫(しかし彼は岡田以外の女に対しては不能ではない)や落石事故後の木村功の身体によって形象化されるにいたる。ついでに言えば「性的不能の身体」という主題はもう一つの主題である「血縁によらない家族」という主題と緊密に結びついている(そしてこちらの方は『鏡の女たち』にいたる吉田喜重の作品群の中心的なテーマでもある)。『水で書かれた物語』の主人公は自分が岸田森の子供ではなく、実は山形勲の子供なのではないかと疑っているし、『炎と女』ではそれは人工受精というあからさまな形を取っている。さて性的不能者である彼らは岡田茉莉子とともにブルジョワ階級に属しており、『情炎』の肉体労働者の高橋悦史のような下位の階級の存在に脅かされている。『女のみづうみ』のヌードスタジオに集まる温泉客たちの岡田に注がれる好奇の視線はそうした存在の不気味さを感じさせるものだった。だがなぜこの時期の吉田喜重はこうした主題を執拗に反復したのであろうか。思えば彼は岡田茉莉子という特権的な被写体を私たちのまなざしに饗しつづけた倒錯的な映画作家なのだった。これはやはり女優を妻に持つゴダールやシャブロルや大島渚ですらなしえなかったことである。
b) 第一次世界大戦終結の翌年に生まれた赤ん坊は成長してハーバード大で史上最年少の助教授となる。第二次世界大戦勃発とともに彼は陸軍に配属され、タカ派の司令官の下で日本本土攻撃の作戦立案チームに加わる。専門の統計管理学を活かして、爆撃の効率化のために、彼は爆撃機の高度を地上7000mから1500mへ下げるように提言し、その結果、東京は10万人の犠牲者とともに一晩で焦土と化す。このめざましい効果によって、この方法は次々と他の地方都市へと適用されていく。そのうちの一つである福井市で一人の少年が空襲を逃げ延び、彼は後に映画作家となる。この少壮の助教授とはこの作品の主役であるロバート・ストレンジ・マクナマラ元米国防長官であり、空襲を逃げ延びた少年とは吉田喜重である。マクナマラが何げなく口にする「効率化」とは何と恐ろしい言葉なのだろう。しかし彼はナチのアイヒマン(『スペシャリスト』)のように良心を欠いているわけではなく、その語り口は人間味にあふれ魅力的ですらある。この映画は11の「教訓」によって章立てされている。それはまるでビジネスマン向けの処世訓のようなものなのだが、実際、彼は戦後、やはりその統計学の能力を駆使して、フォード社の経営を立て直し、創業者一族以外から初めてフォード社の社長になった人物なのだった。ただしそれもたったの五週間だけ。なぜそんなに短期間だったかといえば、彼が経営者として無能だったからではなく、逆にその能力がケネディの知るところとなり、国防長官に抜擢されたからなのだ。彼の子供時代のエピソードで、クラスの担任が成績によって席順を入れ替えたというのがあった。もちろん彼はいつもクラスのトップだったわけだが、彼の競争相手は同じ白人仲間ではなく、「中国人や日本人やユダヤ人」だったというのは、その後の彼の人生を象徴しているようで面白い(彼は国防長官を辞任した後、世界銀行で働いた)。キューバ危機、ヴェトナム戦争の際に要職にいた彼が実は世間が思っていたような「ファシスト」ではなく、むしろヴェトナムにしても「撤兵」を提言していたことは興味深い。ただジョンソンが彼とは正反対の思想の持ち主だったのだ。これまでこの時代のアメリカ合衆国を主に抵抗する人々の側から描いてきたドキュメンタリーは数多く、その中には優れたものもあるわけだが、権力の中枢にいた人間の側から描いたものはこれが初めてではないだろうか。その意味でこの映画は30年遅れのリバース・アングルである。ただしこの「遅れ」によって、切り返しが可能になったことは言うまでもない。なお、昨今の「ドキュメンタリー・ブーム」(より正確には「ドキュメンタリー・バブル」)のためか劇場は満員だったが、「寝た」とか「退屈」とかいう声が終映後ちらほら耳に入ってきた。彼らはマイケル・ムーア的なものを期待してきたのだろうか。この映画を楽しむためには現代史に関する最低限の知識を持ち合わせている必要がある。映画はテレビ番組ではないのだから、そんなことは当たり前だ。何でも説明してもらえると思ったら大間違いである。映像が「情報」と化す時、そこに映画の堕落が始まる。このとても面白く知的な映画に唯一、苦言を呈するとすれば、時々、挿入されるイメージ映像がやや安易に感じられることである。「思考に先立ってフォルムを求めないこと」とストローブは繰り返し言っていたはずである。