阿片戰爭

hj3s-kzu2004-10-05

a)『阿片戰爭』(マキノ正博
a)「日本人」が一人も出て来ない「日本映画」、より正確に言うと私たちがスクリーンに目にしているのは明らかに見覚えのある日本人スターたちなのだが、彼らは物語上では「中国人」だったり「英国人」だったりする。にもかかわらず彼らは堂々と日本語を話している。この奇妙な捩れ。というか時々、簡単な英語表現が混じるが、基本的には日本語しか話されない。この大胆さは何に似ているかというと、言うまでもなく「アメリカ映画」である。例えば『戦争のはらわた』(ペキンパー)の「ドイツ人」たちは堂々と英語を話しているし、多くのSF映画で異星人たちの共通語は英語である(そういえば私は子供の頃、『宇宙戦艦ヤマト』の地球人たちと異星人たちが日本語でコミュニケーションしているのを見て本気で悩んだことがある)。普通の監督だったら、ついつい外国人を使ってしまいそうなところだが、この偉大な映画作家はオール日本人キャストで押し切ってしまう。しかもこれがちっとも変ではないのである。それは彼が真剣に戯れているからだ。そしてこの映画の持つ「世界性」は、この時期の日本がアジア侵略によって「帝国」となり、日本語がアジアにおける国際語と化していたことも一因であるかもしれない。この映画は「日本映画」が最も「アメリカ映画」に近づいた瞬間のドキュメントでもある。この『嵐の孤児』(グリフィス)に着想を得たとされる作品は、にもかかわらずグリフィス的というよりはフォード的である。中国大陸を駆け抜ける騎馬隊の群れはまさにジョン・フォードの作品で私たちが目にするそれだろう。この作品がさらに捩じれているのは、この「阿片戦争」が「太平洋戦争」のアレゴリーである点である。というのも、この作品は中国人の視点に立って英国人を告発しているわけだが、ここで中国人と想像的に同一化している日本人とは、現実的には中国を侵略している日本人、すなわちこの物語における英国人と実は同じ立場にあるからだ。つまりこの映画の隠されたメッセージとは、日本人による日本人の中国侵略の批判である。この奇妙な論理に当のマキノは自覚的だったのだろうか。そして検閲当局はこの捩れに気づかなかったのだろうか。だとしたら凄いことだ。最後にアジ演説をする市川猿之助演じる林即徐とはすなわち「世界精神」に他ならない。