ハイブロンのケートヒェン

a)『ハイブロンのケートヒェン』(エリック・ロメール
b)『「聖杯伝説」リハーサル風景』(ジャン・ドゥーシェ
休みなのに今日も雨。結局、今月は五回あった土曜日のうち、四回が雨だったわけで、今日も映画館では映画を見れず。というか靴の問題に関していえば(前回の日記を参照)、買い置きのリーボックがあったことを思い出して、それを履いて出ていったのだが、微妙にサイズが大きくて、歩いていると靴下がどんどんと靴の中に引きずり込まれてしまい、ルーズソックス状態になってこれはこれでかなり不快だった。起きたのがすでに昼の三時を回っていて、予定していたアテネフランセでの高橋洋特集はすでに第一部が終わっていて、まあ今回上映する作品は『びよ〜ん! ザ・リーズナブル・ダウト』以外はすでに見ているので(この作品も「映画道」のサイトで見れるし)、そうすると選択肢としては『ソドムの市』に行くか、アトム・エゴヤンに行くか、それともグティ(もとid:godard)に強力なオルグをかけられたDOGDAYS氏の映画批評ゼミの初回をのぞきにいくか、となるわけだが、飯も風呂もまだだしなあと思い、飯と風呂を済ますとすでに『ソドムの市』には微妙に間に合わないので、選択肢はふたつとなったが、批評ゼミに関して言えば、これ以上、負債を増やしたくないし(せめて学費が半分なら…)、某日記に煽られていくと思われるのも癪なので、やはり今年も見送ることにし、残るはエゴヤンだが、まだ時間に余裕があったので、半額セールで借りたが毎度のことながら結局ほとんど見れなかったビデオを新宿ツタヤに返してから渋谷に向ったのだが、これがそもそもの間違いで、劇場に着いてみるとすでに人だかりで立ち見だという。エゴヤンごときに立ち見をする気はないので、じゃあいいです、と人だかりを尻目に渋谷駅に引き返し、ああ今日もまた無為に過ごしてしまった、と思いつつ、家に帰って『ハイブロンのケートヒェン』という1979年にロメールが演出したクライスト原作の舞台をマルチカメラで撮影したものを、さらにロメール自身が編集したテレビ作品を見ると、五幕構成の第一幕はいかにも舞台の放送みたいだな、という感想だったのが、第二幕、第三幕と進むにつれて、これが実に映画そのものに他ならないことに気づいて興奮し、夢の場面ではサイレント映画的な演出もされていて、確かに一見、他のロメールの作品のような恋愛喜劇的な要素もあるものの、実は全く違っていて、ここでロメールは「魂」の問題を扱おうとしているのだということが、今は亡きパスカル・オジェの大きく見開かれて涙を流すクローズアップを見ることによって、まざまざと感知されるのであった*1アリエル・ドンバールのビッチぶりも素晴らしい。というか、出ている役者が皆素晴らしい。普段は演劇には興味のない私でもこういうものなら幾らでも見たい。また『聖杯伝説』についてロメールが語っているインタビューでは、ラング的な編集とエイゼンシュテイン的な編集の比較をしていて、ラングの作品では「人は見てもいないものを見たように感じてしまう」とのロメールの発言があり、そうした編集の例として自作の『聖杯伝説』でファブリス・ルキーニが投げた槍が敵の目に突き刺さる場面を取り上げていたのだが、確かにもともと槍は相手の目にくっつけてあるだけなのだが、見事な編集のおかげで、私たちは「刺さった瞬間を見てしまう」(これは撮影のネストール・アルメンドロスの発案だという)。ここで思い出したのがペドロ・コスタの「ラングの映画のショットとショットの間にはナイフが隠されている」という至言なのだった(id:hj3s-kzu:20040314を参照のこと)。
エリック・ロメール・コレクション DVD-BOX III (O侯爵夫人+ハイルブロンのカタリーナ/聖杯伝説+聖杯伝説のレプティーション)

*1:これほど感情を露わにしたクローズアップを私は他のロメール作品で見たことがない。ここでの彼女のクローズアップは『裁かるるジャンヌ』(ドライヤー)のファルコネッティや『女と男のいる舗道』(ゴダール)のアンナ・カリーナのようだ。