ママ、現代映画って何?

a)『ノースモーキング』(アラン・レネ
b)『帝銀事件』(森崎東
c)『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(森崎東
d)『追撃のバラード』(エドウィン・シェリン)
a)「ほら、あのヒッチコックのスクリプト・ガールの名前、何て言ったかな?」ペドロ・コスタによるドキュメンタリー『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』の中で、ストローブとユイレの間でこんなやりとりがなされる。「シルヴェット・ボドーだったか、ボドロだったか」と続けられるその女性の本名はシルヴェット・ボドロなのだが、実際には彼女がヒッチコックの作品についたのは『泥棒成金』のみである。ストローブはさらに、ヒッチコックがスクリプト・ガールを必要としたのは、彼の映画が現代映画ではなかったからだ、と言い、おどけた調子で「ママ、現代映画って何?」と唄い出すのだが、ここでの彼らの言い分は、自分たちの映画はスクリプターを必要としない、すなわち「つなぎ間違い」を怖れない「現代映画」である、ということだ。実際、彼らの映画ではカットごとに人物にさす影の位置が変わっていたりするが、彼らはそれを気にするふうもない。ところでこのシルヴェット・ボドロなる女性は『ぼくの伯父さんの休暇』(ジャック・タチ)でスクリプターとしてデビューし、『二十四時間の情事』から『恋するシャンソン』にいたるアラン・レネの作品の多くに参加している(彼女のフィルモグラフィーの中にはあの超絶技巧的な『プレイタイム』(タチ)が含まれる)。ストローブは明言していないが、あの会話の中で暗に標的とされていたのはヒッチコックではなく、実はアラン・レネだったのではないだろうか。華麗で複雑な「つなぎ間違い」を駆使しているかにみえるレネの作品は、その本質において「つなぎ間違い」を怖れている。一見、奔放な「つなぎ間違い」に見えるものは、厳密にコントロールされたものなのだ(例えば『ジュ・テーム、ジュ・テーム』)。レネの作品を見てしばしば感じる違和感はここに由来するのではないだろうか。彼の映画的感性はヌーヴェル・ヴァーグ以前なのだ。ここからある種のアカデミズムへの距離はほんの少しである。ストローブ=ユイレの大胆さと比較した場合、アラン・レネの小心さが透けて見えてしまうのだ。なお、ボドロ女史は現在、FEMISで教鞭をとっており、『La script-girl』という著書がある。ついでに言えば、アルノー・デプレシャンをいまいち信用できないのも、彼がアラン・レネの系譜に属する映画作家だからである。
Sylvette Baudrot http://www.imdb.com/name/nm0061717/