ルーヴル美術館への訪問 その1

hj3s-kzu2005-01-21

a)『ルーヴル美術館への訪問』(ストローブ=ユイレ
a)この映画のなかで読まれるテクストはジョワシャン・ガスケ『セザンヌ』(興謝野文子訳、求龍堂)の第二部第二章を抜粋・再構成したもの。その台詞の一部を登場する美術作品のリストとともに以下に掲げる。
サモトラケのニケ』(古代ギリシャ彫刻)
http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/img/collec/ager/grande/ma2369.jpg
「〈勝利〉の翼は目にとまらない、〔略〕肉体は、それがなくても戦勝に喜び勇んで飛び立ってゆける。〔略〕魂がその肉体にそなわっていた場合は、魂が四方から輝いて、透けて見える。」
『泉』(アングル)
http://www.wga.hu/html/i/ingres/09ingres.html
「純粋だし、あまいし、柔らかい、だけどプラトニックなのだ。〔略〕しめった、あるいはしめっているべきこの肉付きのボール紙でできたような岩との間に、岩石中の湿気のやりとりが無なのだ。〔略〕しかもあの女は泉なんだから、水から、岩から、葉のなかから出てこなくちゃならない〔略〕。理想の処女を描こうとするあまり、彼〔アングル〕は肉体をまったく描かずにすませた。」
『マラーの死』(ダヴィッド)
http://www.wga.hu/html/d/david_j/3/301david.html
「彼〔ダヴィッド〕の『マラー』ほど冷たいものはほかに知らないよ。なんてちんちくりんな英雄だろう!友だちだった男で、殺害されたばかりで、パリやフランスのために栄光の姿に仕立てなければならないはずの人をだよ、シーツで体につぎをあてたようにして、浴槽につけてさらしたみたいにしてしまったじゃありませんか。彼〔ダヴィッド〕は、マラーについて人々が何と思うかでなく、絵描きのことを何と言うかを気にした。ぼろ画家だ。しかも死体を目で見ていたんですよ…」
『カナの婚礼』(ヴェロネーゼ)
http://www.wga.hu/html/v/veronese/religio1/cana.html
「これこそ絵画だ。部分も全体も、もろもろのヴォリュームや色価も、コンポジションも、戦慄も、すべてがここに入っている。〔略〕大きな色の波動しか知覚されないでしょう、虹色の輝き、たくさんの色、色の宝庫。タブローはわれわれにまずこれを与えてくれなければならないんだ。〔略〕ほら見てごらんなさい、あの群がっている人の真ん中に輝いている音楽、女たちや犬が聞き入っている音楽だ、男たちが強い力でなでるようにしている音楽だ。〔略〕ヴェロネーゼとはね、色彩のなかの思考の充満なのだ。」
『鷲の軍旗の授与』(ダヴィッド)
http://www.military-art.com/images/dhm394_small.jpg
「盛大に、ティツィアーノ風に、王位にありついた悪党を囲んでいるこの馬子連中や軍隊の小使いども全員の心理を表すことこそすべきだったのに。〔略〕ダヴィッドは自分の絵画のなかで、雌が好きでたまらなかったあの色狂いのアングルさえも去勢してしまったんだ。」
『パリサイ人を訪ねるイエス』(ヴェロネーゼ)
「私〔セザンヌ〕がヴェロネーゼのこういった絵のなかで好きなのは、それについて長々しゃべる必要がないからです。〔略〕一枚のタブローは何をも再現していないのだ、まず色彩だけを再現しなければならないのだ。〔略〕絵描きの心理学といえば、それは二つの色調の出合いなんだ。〔略〕絵描きのわれわれは、救世主の生れたのをらっぱで知らせる天使の飛び回る群よりは、この葡萄の開花のほうをむしろ描くべきだ。」
『田園の合奏』(ジョルジョーネ)
http://www.wga.hu/html/g/giorgion/concert.html
「美化しよう、われわれの全想像を大いなる肉感的な夢で美化しよう…しかしそれを自然のなかに泳がせよう。〔略〕この女たちは生きている、それでいて神々しいのだ。赤茶色に包まれた景色全体がまるで自然を超越した田園詩のようだ。宇宙の、感知されうる永遠のなかの、もっと人間的な喜びのなかの、釣合いのとれた一瞬のようだ。しかもわれわれはそれに参加しているし、宇宙の生命を少しも軽蔑しない。」
『天使たちの台所』(ムリリョ)
http://www.insecula.com/oeuvre/photo_ME0000057989.html
「ムリリョは天使たちを描いたはずだが、何ていう美青年たちだろう。〔略〕お祈りしている聖者のヒステリックな忘我の境地や身がやつれて黄色っぽい風体と、この美しい労働者たち全員のもの静かな仕草、輝かしい自信とを対照させているのを見てごらんなさい。それにあの野菜の山!同じ空気のままで、かぶや皿から天使の翼に移ることができる。」
『天国』(ティントレット)
http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=obj_view_obj&objet=cartel_22874_24208_p0007312.001.jpg_obj.html&flag=true
「そうだ、ティントレット、これは絵描きだ。ベートーヴェンが音楽家そのものであり、プラトンが哲学者そのものであるように。〔略〕純潔で官能的で、乱暴で頭脳的で、インスピレーションにたよるのと同じ程に意志のはたらきがあって、まあ、あのティントレットはね、人間の喜怒哀楽をなすものはすべて知りつくしたろうよ、感傷的な心を除けば。〔略〕この天国。そうだよ君、喜びの、渦を巻くようなこの薔薇を一輪描けるためには、だいぶ苦労してきた人でないと駄目だ…〔略〕神様たちは、彼と同じに、一生、彼らを責めさいなんできたあの勢いに乗ってそのままゆく。それによってあんなに苦しんできたのに、いまやそこから逸楽を得ている。そういうところが好きだ…」
ホメーロス礼讃』(アングル)
http://www.wga.hu/html/i/ingres/12ingres.html
アキレウスの怒りとトロイアの炎を言うためにオレンジ色、オデュセウスの旅と荒波を言うために緑色…でもそれだけじゃないんだ、定式は!…そうだ、そうだ、心を締めつける定式…」
『アルジェの女たち』(ドラクロワ
http://www.wga.hu/html/d/delacroi/3/308delac.html
「彼〔ドラクロワ〕は虹色の輝きを使って描く。それにね、彼は太陽が存在していて、その中に筆をつけておいたり、洗濯をしたりすることができるのだと確信している。〔略〕しかも彼は人間というものの、動いている生命の、生暖かいものの感覚を持っているんだ。すべてが動いて、すべてがきらめく。光!」
『十字軍のコンスタンティノープル入城』(ドラクロワ
http://www.wga.hu/html/d/delacroi/4/401delac.html
「君はあの絵を見ていないのも同然だ。〔略〕十年ごとにこの絵は逝ってしまう…〔略〕このなかにはまだ、顔たちを蝕む憂鬱がある。拍車をつけたあの男たちの悲しみがある。しかしこういうものはすべてドラクロワの色調のなかにこそ含まれていたんだ、地があせてしまったため、彼の作り出した効果も、彼の魂ももはやここにはない。〔略〕ドラクロワ、それはもしかしてロマン主義かもしれない。〔略〕でも彼が、フランスで一番美しいパレットであることに変りない。〔略〕わが国の空の下では、同時に、色の魅力と悲壮、色のヴァイブレーションを彼以上に持つ人は誰ひとりとしていませんでした。」
『メデューズ号の筏』(ジェリコー
http://www.wga.hu/html/g/gericaul/1/105geric.html
「このどうしようもないロマン主義者の連中たちは、ものを軽んずる面があって、材料なんかは、ひどいものを使っていた。〔略〕みごとな一ページだが、今や何も見えない。」
『牡鹿の闘い』(クールベ
http://community.webshots.com/photo/139216321/47395404ytghOb
「今世紀で彼〔クールベ〕の右に出る者はいないよ。〔略〕彼には、ものが構成されたように見えるのだ。〔略〕私は、クールベが下に入れているもの、それは力であり、天才であると言いたいんです。〔略〕彼の偉大な貢献とは、十九世紀の絵画のなかに自然の、ぬれた木の葉の匂いや森の奥の苔むした岩壁などを抒情的に登場させたことだ。
『オルナンの埋葬』(クールベ
http://community.webshots.com/photo/139214805/37894422ksjtmj
クールベだけだよ、画布に穴をあけずに、風を塗り込むことのできる人は…〔略〕ひと流しで、生活の断面や、乞食のなかの誰かひとりの貧相ったらしい生活をこきおろすことが、彼にはできた。その後から、彼は同情心をこめて、万事に理解を示す優しい巨人のとぼけた人の善さで、もう一度手を入れるのだった…カリカチュアが涙で湿るのだ。」
(追記)この映画には二つのヴァージョンがある。48分版(第一版)と47分版(第二版)である。今回の上映ではこの二本が続けて上映された。昨年の3/15にシネマテーク・フランセーズでこの作品のプレミア上映が行われた際もやはり同じように上映されたようだ。一見、瓜二つの第一版と第二版の異同は気づいた限りでは以下の通り。まず視覚的には、両ヴァージョンともに、
1) 冒頭にルーヴル美術館正面にある橋の中央から、セーヌ両岸を捉え、ついで反時計回りにルーヴルに向って120度ほどパンをしその左端まで捉えてから、今度は時計回りに30度ほどパンをして正面からルーヴルを捉える全景ショット。
2) 中盤あたりにおそらくはルーヴル美術館の上階の窓から眺められた、セーヌ河岸の三本の木々(その隙間からセーヌ河が見える)を捉えた固定ショット。
3) 最後に森の中を時計回りに180度ほどパンするショット(『労働者たち、農民たち』の冒頭のショットを転用したものと思われる)。
の三つの実景ショットが、美術作品を正面から捉えた固定ショット(ただし最初の『サモトラケのニケ』の彫像のショットだけは、左右二通りの斜めの軸からの仰角の固定ショット)や黒画面とともにこの作品を構成しているのだが、
1) 冒頭のパンは、第一版では、パンの途中で画面を白い鳥が一瞬、斜めに横切り、パンが終わったところに、ルーヴル前の道路に画面奥から数台の自動車(銀色や赤)が左にフレームアウトし、画面奥からローラースケートを履いた通行人がこちらに向ってくる。第二版では、やや先ほどよりは速めにパンした後、画面左から奥に向って市内バスがフレームインし、ルーヴル正面でそのバスが右折しかけた時にカットされる。
2) 中盤の木々を捉えた固定画面は、第一版ではセーヌ河を数台のモーターボートが右から左に抜けていき、画面下方からひとりの中年男性が河のほとりまで歩いて来て右に抜けていくのが見える。木々は初めは静止しているようだが、途中から大きく風に揺れる(このタイミングでナレーションが入る)。第二版ではこのショットの長さは先ほどの半分くらいで、ボートも人も見られず、木々も初めから揺れている。
といった具合に二つの版では明らかに違うテイクが使われている(ただし中盤の固定画面は同じショットを短くしただけかもしれない)。最後のパンは同じである。
音響的には、ナレーターの声の抑揚が、第一版に比べて、第二版の方がやや演劇的(?)に思われる。特にそれが顕著なのは、『オルナンの埋葬』の場面のセザンヌの台詞である(最も高揚した瞬間に声が反響しているのが聞こえる)。
また編集も、両ヴァージョンで、ナレーションを入れるタイミングや、黒画面の長さなど、細かいところで違いがあるようだ。