卑劣さについて

a)『十月のレーニン』(ミハイル・ロンム
b)『一年の九日』(ミハイル・ロンム
先日、書いた「映画批評」云々について、某「映画批評家」(ただし私はこの人がこの名称に値する人間であるとは思っていない)が表面的には冷静さを装いつつ過剰に感情的な反応を示しているようなので、それについて少し述べよう。ただ断っておくが、この人と対話を開始しようと考えているわけではない。ネット上の論争というのは、大抵の場合、単に勝ち負けの問題にすり変わりがちだし、過去にそうした実例(この人のを含めて)を何度も目にしているからだ。しかもこうした議論においては多くの場合「暇人が勝つ」。何故なら一日中、家に閉じこもってネットと向かい合っている人間というのは、そうざらにいるわけではなく、大抵の人は一日の時間の大半を家の外で仕事なり余暇なりに費やしているからで、そうした人たちにとって残された時間をそうした暇人との論戦に費やそうとは普通考えないからだ。しかもこの人とそうした論戦で「勝って」もそこには何ら積極的な意義を私としては見出せないし、そこまで暇人ではない。で、この人の言っていることの何が問題かというと、結局は「映画をダシにしている」からだ。この人の嫌いな(?)蓮實氏が昔言っていたフレーズを使わせてもらうなら、「映画を輝かせるのではなく、自分を輝かせようとしている」と言い換えてもいいだろう。先ほど「映画批評家」という名称に値しないと言ったのはこのような意味においてだ。具体例をあげよう。例えばこの人によれば、現在、「映画批評の黄金時代」が到来しつつあるようだが、私には現在の映画批評がその名に値するようには思えない。ひょっとしたらここで言う「黄金時代」とはブニュエル的な意味での『黄金時代』ではないかとすら思える。またこの主題について論じられた件の論文ももちろん拝読しているし、前半の現在の状況について分析しているあたりは悪くないとは思うが、後半は自分が主催するシネクラブを多幸症的な筆致で自画自賛する文章があるだけで、正直うんざりした。*1また「王道」を掲げた某アメリカ映画の作品評も単に蓮實氏の上澄みだけを掬ったような文章で、ここのどこに「蓮實以後」の映画批評の地平が示されているのか、正直、首を傾げた。この人は他人のことを「クズ」だの「ジャリ」だの「ルサンチマン」だの「鼻紙以下」だの「詐術」だのと言う前に自分の書いた文章をもう一度読み直してみるべきだろう。「ちっぽけな自意識の球体」という言葉に典型的にみられるように、まさにそこで書かれた文章は、幼稚なパーソナリティーを持つこの人自身のことを指しているように思えてならない。自分の中にあるものを他人に投影して、相手の本質を見出したと錯覚すること。これが「転移」でなくて何だろうか。「九州男児」だか何だか知らないが、そうした他人の口を借りて「死ね」などと書き付けてしまうなど、いい歳をした中年男のすることではないし、常識的な判断のできる人間ならそのくらいのことは分かるだろう。しかもいくらでも言い逃れのできるような書き方をしているところなど、本当に卑劣極まりない。また「映画にしか興味がないこと」と「映画についてしか書かないこと」とは違うだろう。例えば、この人の映画以外の話題がサッカーとゲームとパソコンと漫画しかないからといって、この人がそうしたものにしか興味を示さないヲタクだとは私は考えていない。ついでにもう一つ。この人は確か「監視社会」と「映画」について以前、論じていたはずだ。具体的に何を述べていたかはさっぱり憶えていないのだが(というのも小難しい言葉で飾り立てた中身のないものだったからだ)*2、そうした主題を掲げる以上、そこには「監視社会」に対する何らかの抵抗の契機を見出そうという意志があるはずだ。しかし実際はどうだろう。この人の振舞いは典型的に「監視社会」的ではないか。こういうファシストを私は本当に軽蔑する。しかし私はこの人ほど陰湿な人間にはなりたくないので、これからねちねちと攻撃するつもりはないし、そこまで暇人ではない。最新の記事ではようやく自分が「クズ」であることに気づいたようだが、まだまだあんなのでは足りない。リンクを外したくらいで、相手を「2ちゃんねらー」呼ばわりするのも、真剣にものを考えている人間とはとても思えない短絡的な発想である(実際、私もこの掲示板には迷惑している)。リンクを外したのは、この人の自己批評性の欠如のあまりの醜さに顔を背けたからである。まあせっかくだから、以下にリンクして晒してやる。少しは恥を知るがいい。
(注 あんまり長い間、晒しておくのもかわいそうなのでリンク解除しました 2007/7/22)
数行で片付けるつもりが、長々と書いてしまった。はっきり言って時間の無駄である。こんなことについつい関わってしまう私はこの人と同じくらい「クズ」なのだろう。本当にうんざりだ。先ほど述べたようにこの人との関わりはこれっきりにしたい。
(追記)この馬鹿は自分から喧嘩をしかけておきながら、澄ました顔をして逃げてしまった。こういう「クズ」が大きな顔をしてのさばっているから、日本の映画批評は駄目なのだ。もっとも映画批評家の全てがこのような馬鹿ばかりではない。私の知り合いの何人かの映画批評家は常識人である。最新の記事でも「世の中にはかくも深い憎悪や怨念や嫉妬が長期間にわたって蓄積されているということが明らかになるのであれば、それはそれでたいへん結構なことなのです」などと他人事のように書いているが、それは自分のことだとこの偽善者はいいかげん自覚すべきだ。そもそも「心の底から軽蔑して、末永く、嫌味にいじめ続けてやるつもりだ」などと憎悪や怨念に満ちた一文を書いたのはどこのどいつだ。私はこの一節を見た時、本当にぞっとした。こいつが自分のことを「クズ」だと自覚していないことは明らかである。馬鹿は百遍死んでもなおらない。

*1:ついでに言うとこの間の上映会にそこでしか見れないフランス映画が上映されたので初めて参加させてもらったが、その後の講演の内容はひと昔前の文学研究のようなアプローチを思わせるもので、これでよく「映画批評家」という看板を掲げているものだとがっかりした。しかも時間が押しているにも拘わらず、その時間の九割を自説の開帳に割いて、ゲストには一言づつしか言わせないというのも失礼だ。

*2:読み返したらこの講演の採録はそんなに悪くなかった。黙っているのもフェアではないので、この部分については訂正したい。