プレミンジャーまつり

hj3s-kzu2005-04-10

a)『天使の顔』(オットー・プレミンジャー)★★★★
b)『疑惑の渦巻』(オットー・プレミンジャー)★★★★
a)この映画については名著『フィルム・ノワールの光と影』を参照のこと。代わりに当時ジャック・リヴェットが書いた批評の全文を以下に訳出する(拙訳)。

「本質的なもの」ジャック・リヴェット
(「カイエ・デュ・シネマ」 32号、1954年2月)

 この映画〔『天使の顔』〕の主な長所は、時期的にはそれに続く『月蒼くして』と同様、その演出家についての先入観から私たちを解放することにある。彼の主題の巧妙な曖昧さと、彼のキャメラの運動の並外れた流動性と捉えがたさに、私たちが徐々に馴れ親しむならば、それらの背後に何も見出さず、オットー・プレミンジャーの偉大な才能を、こういう言い方ができるなら、穏当な範囲に切り詰めてしまう危険を冒す地点へと私たちはすぐに連れていかれただろう。何よりもまずこれら二本の映画に感謝しよう。というのもそれらは、その気取りのなさ、殺風景なセット、撮影の即興的な性質によって、見事な脚本、素晴らしい俳優、設備のよく整ったスタジオの技術的手段から最良のものを達成する単なる能力以上のものが―たとえそれを疑うことができるとしても―、プレミンジャーにはあるということを私たちに証明してみせたからである。

 したがって私たちは貧しさを称讃すべきである。たとえその唯一の利点が、それを隠し、創造性を刺激するための創意工夫の必要性であるとしても。名声を確立した映画作家すべてを一度はそれ〔貧しさ〕に従わせてみるのは良いことではないだろうか。豊かさが感性を鈍らせてしまうことはよく知られている。自らを疑ってみようとしない才能を試すのに他によい方法があるだろうか。

 二十世紀フォックスの技術的手段と比べると、まるでアマチュア映画作家のそれのような機材によって、プレミンジャーは、いままでは映像の魅力、脚本の不透明な構造、そして「演出」によって肉付けされていた彼の芸術を、本質的なもの、骨格にまで切り詰めている。ここでは映画的要素はほとんど剥き出しにされている。セルズニックやメトロ・プロダクションが気に入るような荒っぽい場面構成に比べて、『天使の顔』と『月蒼くして』はプレミンジャーにとって、ドライヤーの『二人の人間』、ラングの『復讐は俺に任せろ』、ルノワールの『浜辺の女』のようなものである。つまりある演出家の才能や天才の決定的な証拠である。話を明確にしよう。私は何もこの二本の映画が彼の最良の作品だと言っているわけではない―それらは他の作品やその演出家の才能に接近する最良の手段を提供するものの一つであり、私たちがすでに疑っているかもしれないものを裏付けるものの一つなのだ。つまり、この才能こそがまず何よりも映画固有の「観念」の機能なのである。

 しかしこの観念とは何か。そして何故、私はそれについて口ごもっているのか。私はもはやプレミンジャーについて自分が考えていることが分からない。プレミンジャーは、それを殻に閉じ込めてしまうことで、私を興奮させるというより、惑わせるのだ。しかし私はただちに次の言葉を、私の賛辞の、最少のものではなく、第一のものにしたい。すなわち、私たちを惑わせることが取り柄の多くの映画作家たちは、結局のところそれほど偉大ではないのだ、と。

 主題や登場人物の造形に何の目新しさもないという指摘がこの作品に妥当するということは私もよく分かっている。例えば、ジーン・シモンズの役柄と、わが国の演出家の作品に出てくるヒロインのそれとが似たり寄ったりであることなど……。私はそのことをよくわかっている。しかし悪魔が私の耳にこう囁くのだ。「それがそんなに大事なのか。それは慣習や手管ではなくて、犯罪的な偽りの純粋さではないのか」。このありふれた登場人物は、というのも確かに私は彼女をそうしたものとして公言するのだが、また新鮮で驚くべきものである。どうしたらこんなことが起こるのだろうか、脚本には含まれていない一つの謎によるのでないとしたら。

 さらに、謎のもつ、しばしば価値を切り下げられた驚異を過大評価しないように気をつけよう。しかしこのとても謎めいた映画は他とは違った見せかけをしてはいない。ただちに指摘すべきなのは、全く極めて単純な最初の謎は、不可解な第二のものによって強化されているということである。もし行動の半分が謎を残しているとしたら、それはむしろ、語りの論理によって示された解決が、呼び起こされた感情と全く対応していないためである。すなわち、私たちの興味を絶えず登場人物たちの身振りに引きつけるが、それらの映像があらゆる深さの欠如をただちに示すプロットの外的な関心。しかしながら彼らが切望しているのは深さ、最も人工的な種類の深さである。なぜならそれは、人間の疑わしくも不確かなとらえどころのなさに由来するのではなく、芸術そのものから、映画が映画作家に差し出すあらゆる手段の使用に由来するからである。

 撮影し、俳優を演技指導し、創造的であるためのさらなる機会を演出家に可能にするような脚本を、演出家は口実として選択すべきだなどとは、私は決して言明しないだろう。私が口実としての脚本などと言っただろうか。私はここでそれが当てはまるとは考えていない。にもかかわらず、プレミンジャーは脚本の中にまず、ある登場人物を創造し、彼らを骨の折れる注意深さで注視し、彼らの互いの反応を観察し、ついに彼らから特定の身振り、態度、反映―それこそ彼の映画の「存在理由」であり、その真の主題である―を引き出す機会を見て取ったのだと私は考える。

 彼が主題に無関心であったということではない。いまや私は確かに称讃を表したいと思う。プレミンジャーは何にでも手を染めるような人間ではない。成功した場面と、他の穏やかで不器用な場面の交替を通して、ここで彼が関心を持っていたものを見て取るのは簡単である。挿話の比較研究に基づいたプレミンジャーの注釈というものを想像するのは難しい。しかし、語りの要素というよりは、どの主題が自分に適しているかを知っている「作家」の妄執である定数の研究を通して、そのエピソードが機能している様を理解するのはより易しい。*1

 ひとは、彼が物語への確信によって何をもたらしたかを問うことができる。彼はそれを信じているだろうか。彼はそれを私たちに信じさせようと試みようとするだろうか。その起こりえなさは確かに説得力を欠いているわけではない。ひとがその信憑性を拒絶することが少ないのは、あり得ないことが勃発する―よみがえるローラ〔『ローラ殺人事件』〕、コルヴォ博士の鏡の中の自己催眠〔『疑惑の渦巻』〕―まさにその瞬間である。しかし、『ローラ殺人事件』や『疑惑の渦巻』のそれのような格調ある魅力が禁じられているこの映画においては、真の問題は、信じられない物語を信じさせることにあるのではなく、ドラマや語りの本当らしさをこえて、純粋に映画的である真実を見出すことにあるのだ。私は映画についての異なった観念をさらに楽しむが、私はまた、プレミンジャーがしようと試みたことが明らかに理解されること、そしてそれに目を向けるにはあまりに微妙なものであることを問う。私は、まず自らの主題を信じ、この確信の上にその芸術の力を構築したホークス、ヒッチコック、ラングといった古典的な人々のおそらくより素朴な概念を好む。プレミンジャーはまず、「演出」、すなわちセットと登場人物の正確な複合体、関係のネットワーク、結合の建築術、空間の中に宙づりにされた生気のある複合体を信じている。何が彼を引きつけるのだろうか、もしそれが、曖昧な反射と明確で鋭い線をもった透明な水晶の一片や、転調の説明不可能な美が突如、フレーズ全体を正当化するような、聞き取れず稀な特定のコードを聴覚可能にする演奏でないとしたら。これはおそらくある種の気取りについての定義であろうが、その至上のもっとも隠された形式である。というのも、それは奇策を弄することからではなく、かつては聞き取れなかったある音への決定的で危険な探究から生じるからである。ひとは、その謎―知を超えて、知られざるものへと開け放たれたもの―を汲み尽すほど、それを飽きるまで聴いたり、それを深めるまで求めたりはできない。

 そのようなものが「演出」の偶然性であり、そのようなものが、その大いなる深淵を別の方法で明るみに出すのを可能にするような、彼の芸術の実践そのものへの信念について、プレミンジャーが示しているようにみえる実例である。というのも、私はあなた方に、彼の〔作品〕が抽象的な唯美主義者の実験のようなものであるなどとは想像してもらいたくないからだ。「私は何よりも仕事を愛している」、彼はそう私に語った。プレミンジャーにとって一本の映画はまず何よりも、仕事のための、探究のための、そうした問題を促進し解決するための機会であると私は信じている。映画とは目的ではなく手段である。その予測不可能性が彼を魅了する。物事は計画通りにはいかないことを意味する偶然の発見。好機から生れ、場所や人のすぐに過ぎ去っていってしまう本質に捧げられたその場の即興演出。プレミンジャーを一語で定義しなくてはならないとしたら、「演出家」というのが相応しい、たとえここでは舞台演出家としての経歴が彼にほとんど影響を及ぼしていないとしても。人間の出会いによって創造された劇的空間の真ん中で、彼はそのかわり、外観の近さと鋭さを通して、偶然的なもの(しかし意志された偶然性)を捉えるために、予期せぬこと(しかし創造された出来事)を記録するために、映画というものの能力を限界まで押し広げるのだ。登場人物の関係は交換の閉じた回路をつくり出し、そこでは何ものも観客に訴えかけることがない。

 「演出」とは何か。何の準備も前置きもなしに、特にそれに答えようという意図もないのに、そのような危険な問いを発することをお詫びしよう。しかしこの問いは必ずしも私たちの熟慮に満ちているとは限らないのではないだろうか。一例をあげよう。ダナ・アンドリュースが死んだローラの所有物の中をさまよい歩くように、ヒロインが過去の痕跡の中を夜さまようのは、理屈としては、月並みなものへの明らかに古典的な衝動である。しかしプレミンジャーはこうした着想の立案者というよりは、ジーン・シモンズの不確かな足取りや、ひじ掛け椅子に身体を丸める彼女の姿を発明した人間なのだ。平凡で安易であるようなものは、愛想のよさの際立った不在、時の経過の無情さ、外観の冴えによって救われている。あるいはむしろ、そこにはあるのは、主題や場面構成、才能や運ではもはやなく、その核心に敏感な映画の、剥き出しで、胸を引き裂く、明らかな現前である。

 したがって『月蒼くして』は、熟練の演出家による、機知にとんだ喜劇の優れた実践ではなく、―言葉と身ぶりの絶えざる発明を通した、登場人物の絶対的な自由を取り囲む精確さを通した―どんな寓話よりも感動的な力の明快な肯定である。もし一本の映画が、それ自体のための「演出」の実践であるならば、これがそうである。映画とは何であろう、もし男優と女優との、主人公とセットとの、言葉と顔との、手と対象との「戯れ」でないとしたら。

 これらの映画の剥き出しさは、本質的なものを危険にさらすどころか、挑発的な地点にまでそれを強調する。そしてそれを解決するようなもの―見かけへの、「自然らしさ」への嗜好、偶然的なものの巧妙な不意打ち、偶然的な身ぶりの追求―、これら全ては、それらを無から遠ざけるような、映画の、あるいは人間の秘められた側面にそれでもやはり出会うのだ。私はこれ以上問うことはできない。

b)この作品についての詳細なデータは以下の通り(Contre Champ作成)。

疑惑の渦巻 Whirlpool 1949 (97分)
監督・製作:オットープレミンジャー/脚本:ベン・ヘクト、アンドリュー・ソルト/原作:ガイ・エンドール/撮影:アーサー・ミラー/編集:ルイス・ローフラー/音楽:デイヴィッド・ラクシン/美術:リ-ランド・フラー、ライル・ウィーラー/製作会社:二十世紀フォックス/出演:ジーン・ティアニー(アン・サットン)、リチャード・コンテ(ウィリアム・サットン博士)、ホセ・ファーラー(デヴィッド・コルボ)、チャールズ・ビックフォード(コルトン警部補)、バーバラ・オニール(テレサランドルフ)、エドワード・フランツ(マーティン・エイヴリー)、コンスタンス・コリアー(ティナ・コスグローヴ)
(あらすじ)
 高名な精神分析医ビル・サットン(リチャード・コンテ)の妻であるアン・サットン(ジーン・ティアニー)はある日デパートで「ピン」を万引きして捕まる。彼女が店の支配人に取り調べをされている時、柔らかい物腰だが少し高圧的な謎の紳士が現れて、店の支配人にアンの素性と彼女が病人であることを伝え、「ピン」の勘定をツケにするように指示し、アンをその窮地と、想像しうる不名誉から救い出す。その男(ホセ・ファーラー)は、自称「精神分析医」、催眠術師、占星術師…のコルボであると判明する。アンの窃盗癖を脅迫に利用したりしないと安心させた後、表向きは彼女の不眠症を治すという目的で、定期的な「治療」を受けに来るよう、コルボはアンを説得する。夫を失望させないために彼女が精神的な問題を夫に伝えることを怖れ、催眠治療を受けることを望んでいるのを、コルボは彼女と会ううちに気づいてくる。
 この知見に力を得て、コルボは、元「患者」で、彼の巨額の負債の債権者で、ペテン師であることを暴露すると彼を脅迫していたテレサランドルフ(バーバラ・オニール)を始末するための陰謀に、アンを利用しにとりかかる。アンと彼自身との間の情事があったかのように見せ掛ける偽の証拠を注意深く残してから、彼は胆嚢手術というアリバイづくりをする。それから、入院中に彼は自己催眠をかけて、人知れず病院のベッドを抜け、テレサの家に行って彼女を殺害し、病室に戻る。一方、その催眠暗示の影響下にあるアンは、夫にテレサが治療を受けたときに吹き込まれた、コルボの犯罪の有力な証拠となる録音記録を隠し、ちょうどそこで警察に見つかって、テレサ殺しの犯人として告発されるようなタイミングでテレサの家に行く。
 コルボが計画した証拠は、アンと彼との間に関係があったことを指し示し、警察はすぐに嫉妬を犯罪の動機とみなす。このせいでアンの夫さえ彼女が有罪であると疑い始める。苦悩ののち、ついにアンは窃盗癖のことを告白し、夫は何が起きたのかを理解し、コルボに対面する。コルボは録音記録がすぐにも発見されることを恐れ、再び自己催眠をかけて病室を抜け出し、録音記録が隠してあるテレサの家に戻る。彼が証拠を隠滅する前に、アンとビルが警察とともに到着し、コルボは、その場を脱出するには出血が酷すぎることを悟る。撃ち合いの最中、コルボは死に、砕け散った証拠のレコードが残され、アンと夫は秘密のない誠実な新たな礎の上に以前にも増して強く結ばれる。

フィルム・ノワールの光と影 (EMブックス)

フィルム・ノワールの光と影 (EMブックス)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: エスクァイアマガジンジャパン
  • 発売日: 1999/07
  • メディア: 単行本

*1:例えば、魅惑された状態(『ローラ殺人事件』『疑惑の渦巻』『天使の顔』)、反対尋問(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『疑惑の渦巻』『歩道の終わる所』『天使の顔』)、恋における対立(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『哀しみの恋』『天使の顔』『月蒼くして』)