蓮實重彦とことん日本映画を語る VOL.11

hj3s-kzu2005-04-16

(以下のレジュメはあくまで私が記憶しているものを再構成したもので、実際に講義で語られた言葉の正確な反映ではない。よってこれを読まれる方はくれぐれも蓮實氏が語った言葉として引用したりしないように注意してもらいたい。私のバイアスがかなりかかっていることを予めお断りしておく。)

本日のお題は「成瀬巳喜男は世界一だ」、副題として「静穏で凄惨な―女性たちの葛藤―」。まずタイトルだが、これは成瀬生誕百年を特集するテレビ番組の企画書が、ある日、蓮實氏のところに送られてきたのだが、その冒頭に「日本映画の第四の巨匠である成瀬巳喜男云々」とあり、これに憤慨して「何が四番目だ!成瀬は世界一だ!」と思わず口走ったことに由来する。もっとも「世界一」の映画作家は成瀬だけでなく他にも沢山いる。ルノワールしかりヒッチコックしかりロッセリーニしかり。小津と溝口、フォードとホークス、ムルナウとラングを比べて、どちらが偉大かを問うのはナンセンスである。映画においてはどちらも偉大なのだ。成瀬巳喜男とはそうした映画作家の一人である。では成瀬はいかなる意味において「世界一」なのか。言い換えれば彼にしかできないことは何か。それを世間に流通している彼をめぐる神話(=大嘘)を検証しつつ考えていくことにする。まずは「1930年代後半から成瀬はスランプに陥った」という神話。これが大嘘だということを証明するために『まごころ』(1939)のワンシーンを見てみよう。互いの親同士が過去にのっぴきならぬ関係にあったことを知ってしまった二人の少女(蓮實氏によれば「阿部和重的なヤバさ」のある)が、それを語るうちに一緒にさめざめと泣いてしまうという素晴らしい場面。ここで成瀬は学校の校庭にある踏台の上に二人を座らせ、その距離を会話の進展につれて近づけたり遠ざけたりする動きとともに、その場面を二人の切り返し、そして最初と最後に簡潔なロングショットで二人の姿を収めるという演出をしているだけなのだが、こんな何気ない出来事が映画の対象となりうることを発見し、しかもこれだけ充実した場面に仕立てあげることができたのは、映画史において成瀬だけである。屋外の開放的な空間にいる二人の少女とは対照的に、『晩菊』(1954)には、薄暗く閉ざされた室内空間で二人の老女(細川ちか子と望月優子)が気の滅入るような会話をする場面がある。元は売れっ子芸者だったらしい彼女たちのここで会話の話題は、彼女たちに金を貸しているやはり元芸者の杉村春子の悪口なのだが、しばしば「女性たちの葛藤」が主題化される成瀬作品において、そこで顕在化されるのは「金銭」をめぐる葛藤である。さらに『流れる』(1956)でそのことを確認してみよう。経営が傾きかかった芸者置屋のおかみ(山田五十鈴)が先輩芸者で今は成功している栗島すみ子に金を借りようとするのだが、その場に酔っぱらって帰って来た杉村春子岡田茉莉子が馬鹿騒ぎをしているのを見られて気まずい雰囲気になる。サイレント時代の大スターであった栗島すみ子はこの作品が18年ぶりの映画出演となるが、この「貸す―借りる」という関係をまさに逆転させた作品が、かつて彼女が出演したサイレント作品『夜ごとの夢』(1933)である(当時、大スターだった彼女に対し、成瀬はまだデビュー3年目の新人監督)。子供の治療費を女将の飯田蝶子に貸してくれと頼むが断られたバーの女給の栗島すみ子は船員の坂本武に金銭を貰うが、それは男女関係の強要を意味していた。この場面にみられるように「金銭」は権力関係に結びつく。では『山の音』(1954)を見てみよう。山村聡が息子の愛人(角梨枝子)に手切れ金を渡しにいく場面。そこで彼は息子が愛人に暴力を振るっていたという事実まで聞かされる。まともな神経の持ち主だったらいたたまれなくなって、その場を逃げ出したくなるような場面を、成瀬は省略することなく嬉々としてフィルムに収める。しかも登場人物たちに声を荒げさせたりすることなく。こうした「静穏で凄惨な」場面を撮らせたら、映画史において成瀬の右に出るものはいない。彼がしばしばこうした場面を描くのは、単なる「リアリズム」の問題ではなく、彼の作品自体がそれを要請しているためである。ではこれが女性同士だったらどのような場面になるのか。『稲妻』(1952)で三浦光子が妹の高峰秀子を伴って、亡くなった夫の間に一子さえもうけ、大金を無心する元愛人の中北千枝子に会いに行く場面。やはりここでも「金銭」をめぐって二人の女性が対立するのだが、この「凄惨な」場面でも「静穏」な演出がなされている。この作品に明らかなように、成瀬作品においては、「金銭」をめぐって対立する二人の女性は「正妻」と「妾」といった一人の男性を共有した関係にある場合が多い。ただし、必ずしも「妾」の方が権力関係において劣勢にあるわけではなく、この場面のように互角である。なお『稲妻』のこの場面(二階屋、その前を流れる川に架かる橋)にみられるように、成瀬の映画的な空間把握力の確かさには実に驚かされる。「正妻」と「妾」の葛藤をめぐってさらに見ていこう。あの美しい『あらくれ』(1957)。徳田秋聲が原作のこの作品において、高峰秀子は亡くなった元愛人の妻に会いに行って冷たくあしらわれるが(高峰はその家で女中として働いていた)、この場面に続く元愛人の墓前でのシーンにおいて明らかなように、ここでも「金銭」が主題である。ここでのように高峰秀子は台詞があまりない場面の方が素晴らしい演技をする場合があるが、そうした例として、『女が階段を上る時』(1960)がある。結婚詐欺まがいの加東大介(!)に騙されて関係を持ってしまった雇われマダムの高峰秀子が、工場地帯の寒々とした空き地でその正妻と対面する場面で、力なく微笑む彼女の演技は素晴らしい。ちなみに成瀬作品では加東大介高峰秀子というありえないカップルが何故か夫婦である場合が多い。さらに『妻として女として』(1961)を見てみよう。題名に明らかなように「妻」(=「正妻」)と「女」(=「妾」)が「金銭」をめぐって対立する。しかも興味深いことに「正妻」の淡島千景と「妾」の高峰秀子が「金銭」についての会話をする空間である料亭は、高峰の友人である女将が愛人から譲り受けたものである。この凄惨な場面でも二人は声を荒げたりしない。『妻』(1953)という映画は成瀬作品の中ではそれほど知名度が高くないが、優れた作品の一つである。ここにもやはり「正妻」と「妾」の葛藤が現れる。夫の愛人(丹阿弥谷津子)の下宿先まで乗り込んでいった高峰三枝子は、外で一緒に歩きながら緊迫した会話を交わすのだが、二人の会話をほとんど官能的といってもいいほど緩やかな移動撮影で捉えたこの素晴らしい場面を見ると、「成瀬はロケーション撮影を好まなかった」という神話がいかに大嘘であるかが分かる。ロケ好きでなければこのような場面は撮れない。いくつかの移動ショットのすぐ後に彼女たちはトンネルそばのミルクホールに入るのだが、成瀬は、内部の薄暗い空間の中に通過する列車の反射光をきらめかせ、その音響をいっぱいに響かせている。彼の空間設計の素晴らしさを示すこうした場面の数々を可能にしているのは、撮影の玉井正夫、照明の石井長四郎*1、美術の中古智といった当時、世界最高水準に達していた東宝の技術スタッフである。*2この高峰三枝子のように大胆にも他人の家に押しかけていくヒロイン像はすでにあの『浮雲』(1955)に現れている。元愛人の森雅之の家を訪ねる高峰秀子。この玄関先での演出の呼吸は『妻』の同様の場面ととてもよく似ている。この偉大な作品を最後に見ながら、成瀬巳喜男が世界一であることを確認し、今回の講義は幕を閉じた。
(追記)このレジュメを成瀬を専門にしている映画研究者の大久保清朗さんにチェックしていただいた。ここに記してお礼申し上げます。

成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する (リュミエール叢書)

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稲妻 [DVD]

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*1:ただし『妻』の照明は例外的に森茂が担当。

*2:玉井正夫について言及することなしに、成瀬についてのドキュメンタリー映画を撮ることなど不可能であるとのこと。