蓮實重彦とことん日本映画を語る VOL.12

hj3s-kzu2005-07-02

(例によって以下のレジュメは私の脳内変換されたものなので、くれぐれも蓮實重彦氏の言葉として引用することのないようにお願いする。なお、前回(id:hj3s-kzu:20050416)と第8回(id:hj3s-kzu:20040430)の講義レジュメ、『成瀬巳喜男の世界へ』所収の蓮實氏の成瀬巳喜男論(特にpp.83-84)、および「ROUGE」掲載の侯孝賢論(http://www.rouge.com.au/6/cafe_lumiere.html*1を参照のこと)。
本日のお題は「成瀬巳喜男から侯孝賢へ」。まず海外の映画作家による成瀬へのオマージュの例として『書かれた顔』(ダニエル・シュミット)の杉村春子の登場場面。ここでシュミットは『晩菊』(1954) の中でもとりわけ素晴らしい上原謙の訪問によって杉村春子が娘のように浮かれるシーンを抜粋している。このように優れた映画作家たちの間では言葉を交わさずとも、心によるコミュニケーションが成立しうる。*2また十年ほど前に、東京国際映画祭で『旅役者』(1940) が上映された後、涙を押さえながら会場を出ていった中国人女性の姿が見られたが、彼女こそは侯孝賢の脚本家の朱天文である。蓮實氏の予測通り彼女は次の上映に侯孝賢を連れてきたという。彼女を泣かせたという『旅役者』のラストシーン。旅回りの舞台で「馬」を演じている藤原釜足らが昼間から自棄酒を呑んでいると、清川虹子らが冷やかしにくるので、「馬」の格好をし、本物の馬以上に馬らしいところを見せてやると、馬の柵の前で本物の馬を威嚇するので、驚いた馬が外れた柵から村の通りを逃げ出していき、それを藤原釜足らの馬が追うというただそれだけのシーンなのだが、村の外れの一本道を遠ざかっていく「二匹の馬」を逆光で捉えた簡潔で美しいイメージでこの作品は終わる。続けて前回の講義「成瀬巳喜男は世界一だ」で紹介できなかった抜粋が補遺として映写される。『妻よ薔薇のやうに』から千葉早智子が父親の妾の娘と温泉宿で物言わず湯に浸かっている美しいショット。
さて、成瀬の作品には印象的な列車のシーンがしばしば登場するが、多くの場合、それは登場人物たちが互いに視線を交錯させる愛の空間として機能している。例えば『君と別れて』(1933) で水久保澄子と磯野秋雄のカップルが疾走する列車に揺られながら言葉を交わしあう場面。そしてこの緩やかな持続は彼女の故郷である海辺の町に打ち寄せる波のショットによって鮮烈に断ち切られる。あるいは『鶴八鶴次郎』(1938)の冒頭、長谷川一夫山田五十鈴のカップルが浅草寺にお参りに行く場面(サイレント的な演出)から、走行中の列車内に並んで腰掛ける二人へと移行する素晴らしいシーン。これらの列車内の場面はスクリーンプロセスを使って撮影所内で撮られたものだが、『君と行く路』(1936) では実際に走行中の列車内で撮られた素晴らしい場面があり、そこではまだ互いを知らない佐伯秀男と堤真佐子が相手の存在を意識しつつ視線を交わしたり逸らせたりするやはりサイレント的な充実したシーンがある。
成瀬と同様に侯孝賢の作品においても列車はかなりの頻度でしかも物語的に重要な機能を果しながら登場する。だがその前に「列車」を撮った最初の映画作家であるリュミエール兄弟の作品を見てみよう。あまりにも有名な『列車の到着』(1897) において、キャメラは列車から距離をおいてプラットフォームに固定されていたが、その翌年に撮影された『トンネルの通過』(1898) では早くも走行中の列車の前面に据えられたキャメラによって、過ぎ去る風景とトンネルを出た瞬間に満ち溢れる光とが生々しい前進移動ショットによって捉えられている。これとほぼ同じ画面を侯孝賢の『恋恋風塵』(1986) の導入部に見ることができる。山間の緑あふれる景色の中をいくつものトンネルを潜り抜けながら進む列車からの緩やかな前進移動から、車内の王晶文と辛樹芬のカップルへと切り替わり、家々に挟まれた線路(日本と違い、線路のすぐ脇にそれを挟むような形で建物が建っている感じが素晴らしい)を二人が言葉少なに並んで歩いていくと、野外上映のために設置された白いスクリーンが風を孕んではためいている様子が見えるという素晴らしい一連の場面。あるいはこの作品の中の『列車の到着』とほぼ同じ構図の画面。このようにリュミエール兄弟の作品とほぼ同じ画面が侯孝賢の作品に見られるということは、必ずしも後者が前者を模倣しているということを意味しない。ここで指摘しうるのは、優れた映画作家たちがこの交通機関に向ける鋭敏な眼差しの重要性である。
「列車の到着」だけでなく「列車の通過」も侯孝賢の作品においては物語的に重要な機能を果す。『童年往事』(1985) では中国本土への帰還を望んで果たせない老婆が大陸時代の思い出である氷あずきを戸外の食堂で孫と一緒に食べている背後を列車が通過する。あるいは『悲情城市』(1989) のトニー・レオンと辛樹芬*3の夫婦が子供を連れてなすすべもなくプラットフォームに立ち尽くす前を列車が横切っていく有名な場面(この後に続くホテルの一室で彼らが記念写真を撮るシーンで、シャッターが切られる瞬間のそれまでの抒情を断ち切るようなストップモーションは、小津におけるそれのように、逆に抒情が際立つ鮮烈さがある)。そして『冬冬の夏休み』(1984) で田舎家の周りを散歩する老夫婦(彼らにはできの悪い息子がいる)の前を横切っていく列車。『憂鬱な楽園』(1996) では小高いところにある食堂の側で丼ものを食べている林強の眼下を列車が通過していく。*4こうしたイメージに共通するのは、通過する列車の傍らにいる登場人物たちの無力感、あるいは諦念のようなものである。
頻出する列車に対して、侯孝賢の作品には自動車はそれほど多くは出てこないが、それが現れる場合、決まって不運なイメージと結びついている。『憂鬱な楽園』のラストショット。薄暗がりのなか、ロングショットで捉えられた田舎道で事故を起こした主人公たちの自動車で何が起きたのだろうか。重傷か死亡か、侯孝賢は観客の想像に委ねているが、それが不吉なものであることは疑いない。あるいは『ステキな彼女』(1980) の冒頭、スポーツカーに乗ったブルジョワ娘の鳳飛飛は、ケニー・ビーの送る合図に目もくれない。『川の流れに草は青々』(1983) のケニー・ビーは恋人の自動車から、今にも雨の降り出しそうな山道に置き去りにされてしまう。『風が踊る』(1981) の鳳飛飛は写真を撮るのに夢中のあまり、目の前で自動車をレッカー移動されてしまう。こうした不運と結びついた自動車のイメージが鮮烈な形で現れているのが、不当な低評価を被っている『ナイルの娘』(1987) である。ヒロインの楊林の男友達が停めたジープに凶器を持ったヤクザの一団が群がってきて、ジープのフロントガラスを叩き割り始める。堪りかねて彼らに飛びかかったジープの持ち主は逆にヤクザの拳銃によって撃たれてしまう。
では列車はどこへ行ったのだろうか。最新作『珈琲時光』では、列車の回帰ともいうべき現象が起こっており、作品全体に列車の運動が満ち溢れている。いくつもの列車が交錯する御茶ノ水付近の風景を捉えた素晴らしいラストショットを見ながら、一青窈浅野忠信のカップルを捉えた臨場感溢れる列車内での場面がそうであるように、日本の若い映画作家ももっと大胆に撮影すべきだと一言煽動して今日の講義は終わった。


帰りにTくんと未来社のNさんと呑み、新宿までタクシー相乗りさせてもらい(おかげで山手線のラッシュを味わわずにすんだ)さらにまだ呑む二人と別れ、埼京線で座って帰る。


(追記)なお本日は成瀬巳喜男の命日にあたる。わざわざこの日を選んで、しかもそれを黙っている蓮實氏は粋な方である。


a)『DV―ドメスティック・バイオレンス』(フレデリック・ワイズマン)★★★★

成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書36

成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書36

*1:なおこの論文は元々はシンガポールでのシンポジウムのために書かれたものだが、蓮實氏本人はドタキャンしてシンガポールには行っていないのでお間違えのないようにとのこと。

*2:杉村春子を讃えるシュミットの素晴らしいエッセーは『成瀬巳喜男の世界へ』で読むことができる。

*3:なお余談だが、松浦寿輝の『半島』という小説ではシー・フンという中国人女性が登場するが、ほとんど素人のような女優である清楚なこの樹芬のイメージを玄人っぽい妖しい女に変えてしまうところに松浦寿輝のエロさがあると蓮實氏は言っていた。

*4:この作品の冒頭の走行する列車の場面に見られる列車の進行方向とそれに対するキャメラの向きとの関係は、『恋恋風塵』の冒頭のそれと対称をなしている。