宇宙戦争

a)『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ)★★★
b)『負ケラレマセン勝ツマデハ』(豊田四郎)★★★
a)『未知との遭遇』の導入部が空に向けられたフランソワ・トリュフォーの仰角ぎみの視線で締めくくられていたのとは、正反対に『宇宙戦争』においては、ファーストショットの(そしてラストショットに反復される)ウィルスのCG(そしてそのショットはこの作品を縁取るようにモーガン・フリーマンのナレーションが被さる)を別とすれば、地表へと向けられた「何者か」の垂直的な真俯瞰の視線の視線で始まる。続くシーンで港湾労働者たるトム・クルーズは「何者か」の身振りに感染したかのように、視線を下に向けながら、クレーンを操作し、船の積み荷を上げ下ろししている。こうして『宇宙戦争』は、『未知との遭遇』がまさに「見上げる」映画であったのと同じように、「見下ろす」映画であることを強く見るものに印象づける。いわば『宇宙戦争』は、28年という歳月を経た『未知との遭遇』の切り返しショット(contre-champ)である。ひと仕事を終えたトム・クルーズが仲間と会話をしながら歩くのを捉えた横移動ショットの途中で大型トレーラーの回転する車輪が画面を遮るのだが、以後、物語の展開の要所要所でこうした回転運動は姿を見せる(墜落した旅客機のタービン、宇宙人が回す自転車の車輪)。冒頭のキャッチボールの場面で、トム・クルーズが割った窓ガラスの丸い穴から彼を捉えたショットと同様の構図が後半の重要な場面で反復されるのだが、そこでの視線と対象の関係は逆転している。先のショットでは空位となっていた視線の主体の場所に、今度はトム・クルーズがまさに主体として位置し、その視線の対象として間近に危険の迫ったダコタ・ファニングがそこに位置しているのは、それまで決断を回避しつづけていたはずのトム・クルーズがまさに決断する主体として自らを見出す瞬間に他ならない。大量殺戮マシーンが「トライポッド(=三脚)」と呼ばれていることから想像がつくように、その台座に据えられた単眼の化け物は「カメラ」の隠喩に他ならない。しかもこのカメラは生贄をその鋭い触手で串刺しにして血液を体内に吸収する「血を吸うカメラ」(マイケル・パウエル)なのだ。この吸血カメラにはさらに胃カメラのような触手がついており、廃屋に隠れたトム・クルーズらを捜しまわるのだが、その魔手から逃れるために彼らが考えた手段が「鏡」である点は、その直後のシーンでトム・クルーズが主体として目覚めることを考え合わせると興味深い。*1この「鏡」のトリックによって彼は無意識のうちに主体としての目覚めを準備していたのかもしれない。ともあれ、現代的な意匠(「コンピューター・ウィルス」)を施し、しかも超越的な主体(「戦う合衆国大統領」)を仮構して、やはり『宇宙戦争』をリメイクしてみせた『インデペンデンス・デイ』のローランド・エメリッヒなどと違って遥かに聡明なスピルバーグはそうした小細工を峻拒し、マイケル・パウエルを経由して映画の始源へと一挙に遡行する。三脚に据えられた光線を発するカメラ。それは一台で撮影機と映写機を兼ねたというリュミエール兄弟のキャメラに何とよく似ていることか。始源の単純さによって人々を撃つこと。こうした姿勢は、たてがみを炎上させながら狂ったように駆けていく馬(どの映画のイメージだったか思い出せない)のように、劇中、窓という窓から火を吹き上げながら猛スピードで画面を横切っていく列車の運動のように美しい。
(追記)ボールによって割れる窓ガラス、あるいは逆にピーナツバターの塗られた食パンの張り付いた窓ガラス、といった風に、窓ガラスを「通過すること/通過しないこと」という対立が、「ものを投げる人」としてのトム・クルーズの身振りによって顕在化するのだが、これはもちろん「トライポッド」が「シールド」で覆われていることと主題的には相関的な関係にある。終幕部で「トライポッド」の「シールド」が解除されていることをいち早くトム・クルーズが指摘しえたのは、彼が「通過すること/通過しないこと」という対立に誰よりも敏感な存在だったからである。なおこの終幕部に黒いカラスが群がっていることは偶然ではない。中盤、墜落した旅客機の残骸が散らばっている庭を捉えた横からのやや俯瞰ぎみのロングショットを見て誰もが思い浮かべたように、この『宇宙戦争』は『鳥』(ヒッチコック)のリメイクでもあるのだ。上空から人間を狙う視線、それはまさにヒッチコックが「鳥」の主観ショットとして表現したものに他ならない。

*1:そういえば『血を吸うカメラ』では、カメラに取り付けられた凹面鏡に映った恐怖に歪んだ自分の顔を犠牲者は死の直前に見るのだった。