世界

hj3s-kzu2005-07-18

a) 『世界』(ジャ・ジャンクー)★★★
a) 「世界」が「世界」と呼ばれるのは、それ自体で欠けることがない全体であるからだ。全体である以上、それは「外」をもたない。「外」をもつ「世界」というものは、形容矛盾というものだろう。冒頭、北京郊外の「世界公園」を捉えたロングショットに「世界」という言葉がインポーズされ、それが世界と名付けられた以上、この作品においては「世界公園」=「世界」であり、そこが彼らの住む世界である。世界公園の中心にあるミニ・エッフェル塔(実物の1/3の高さらしい)を構図の中央において公園の全景を捉えた、このロングショットは、屑拾いの籠を背負った男が画面の手前を横切ることで、すぐさまその安定性を脅かされる。「世界」の「外」というものはそもそも存在しないのだから、この公園全景を捉えたショット自体が虚構にすぎないし、その虚構性自体が絶えずリアルなもの(プロレタリアート?)によって危機にさらされているのだ。ヒロイン(チャオ・タオ)が開幕早々「絆創膏ない?」と同僚のダンサーたちに尋ねて回っていたのは、もしかしたら無意識のうちに彼女がこの「世界」の裂け目の存在に気づいていて、それを塞ごうとしていたからかも知れない(彼女が絆創膏を貼るのは、彼女の「アキレス腱」のあたりである)。
この「世界」の構造はどのようになっているのか。先に述べた通り、中心にミニ・エッフェル塔が位置していて、それの周りにやはりミニチュアの世界の名所が点在していて、さらにその全体は公園を一周するモノレールに取り囲まれている。つまりこのモノレールは「世界」の境界なのだ。ヒロインが暇さえあれば、彼女以外に乗客がいないように見えるこのモノレールに乗っているのは、彼女だけがこの「世界」の不完全性・虚構性に自覚的だからだ。彼女は夢想(それはアニメで示される)の中で、宙を自由に飛び回り、この「世界」からの脱出を試みようとするのだが、それは果たせない(彼女がそれに成功するためには仮死を試みるしかないだろう)。文字通り世界を飛び回るカメラマンである彼女の元恋人が最初の方の場面で彼女に会いに来て、あっさりまた旅立ってしまうのとこれは対照的である。彼女がこのモノレール=境界を好むのに対して、世界公園の保安課に勤務する彼女の現在の恋人(チェン・タイシェン)は、まさに「世界」の中心=ミニ・エッフェル塔の展望台を好む。一望監視装置を思わせないでもないこの展望台にたむろする彼ら警備員の日常といったら、ダンサーたちとの恋愛遊戯に耽ったり、闇市場に携帯電話を横流ししたり、麻雀をしたりするくらいで、警備員というよりはゴロツキという方が相応しい。たまに皆でピアノや飲料水を運搬したりすることもあるが、これなども仕事というよりは遊びのようで何やら楽しげである。もっとも彼らの雇い主自身、ダンサーの一人に手を出して、その娘をダンサーたちの団長にしてしまうくらいだから、まったくこの資本主義的「世界」は(私たちの住む世界に似て?)お気楽なのだ。
だが本当に「世界」の「外」は存在しないのだろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。例えば、ヒロインの恋人は、後に浮気相手となるファッション・デザイナー(とはいえ彼女のデザインするものは、有名ブランドの「コピー」である)の女性が、トラブルに巻き込まれた彼女の弟に会うために郷里に戻るのに付き合うのだが、彼女とその弟との対面のシーンは薄暗い大ホールの客席で演出されていて、開かれた「外」というよりはむしろ閉ざされた内部を思わせるし、帰郷なるものもあっさりそのカットだけで処理されていて、次のカットではすでに北京への帰路につく車上の二人の姿に切り替わってしまうのだ。あるいはパーティ会場(そこでヒロインは彼女に気がある宝石ブローカーから香港行きを誘われるが断る)、工事現場、病院、天安門広場などいくつか「世界公園」の外に位置するはずのものが登場するのだが、それらと「世界公園」の間を繋ぐはずのシーン転換は大体アニメで処理されており、それによってそれらが「外」にあるという印象よりも、「世界」を補完し、その一部をなしているものという印象の方が強い。このアニメのシーンで必ず恋人同士のメールのやり取りを表示する携帯電話のモニターのイメージが同時に示されるのもその仮想性を強調している。
彼女らの恋愛遊戯が展開されるこの無時間的な「世界」もだが終わりに向けて物語が進んでいくにつれてこの綻びを露にしていくだろう。ある若者の死(幾許かの金銭に交換される)によって、それまでファッショナブルだったはずの「世界」の表層にそれとは異質な人たち(それこそが真の人民であるとでもいうかのように)が侵入し、あるいは他の若者は自らに火を放つだろう(愛と引き換えに)。やはり「外」は存在するのだ。灰色にくすんだ早朝、高い煙突から炎を吹き上げる工場の裏手のスラム街のアパートの一室でそう確信した恋人たちは「外」へと向けて新たな一歩を踏み出すだろう(このラストのワンシーン=ワンショットはこの作品の中で最も充実した瞬間である)。


(追記)後半、工事中の事故で命を落とすことになる若者がたどたどしい文字で書いた「遺書」に簡潔に記された、誰にいくら借りたかという借金のリストの唯物性は、ヒロインたちが交わす恋愛にまつわる軽薄な内容のメールとそこで登場するアニメの仮想性と鋭く対立している。おそらくその短い生涯の間に携帯電話すら所有することすらなかっただろう若者は「世界」から排除された存在であり、「世界」の内側に住まうものたちが日常の大半をそれに費やしている恋愛遊戯(携帯電話を主なコミュニケーション手段とする)とは無縁である。そして彼の死を契機として田舎から出てくる彼の親類たちは碌に字も書けない人たちなのだ。