映画は仇討だ!

hj3s-kzu2005-08-06

a)『亡国のイージス』(阪本順治)★★★
b)『INAZUMA 稲妻』(西山洋市)★★★★


シネフィルにはあまり評判のよくない『亡国のイージス』について、「見上げること」と「赤」の主題を巡って分析し熱烈に擁護する文章を書こうと思っていたのだが、『INAZUMA 稲妻』を見たらそんなことはどーでもよくなった。
西山さん、素晴らしい作品を本当にありがとうございます。見ているこちらも何か憑き物が落ちたような晴れやかな気持ちになりました。十年かかるか二十年かかるか分かりませんが、この映画を超えるものを私もいつか撮りたいと思います。
なお、この傑作はid:eigahitokwさんの情報によれば、映画美学校映画祭で上映されるそうなのでお見逃しなく。


(追伸)『亡国のイージス』については何も書かずに済ませようと思ったのですが、どうもそれではid:eigahitokwさんが許してくれそうにないので、書いてみました。以下をどーぞ。


a)赤が足りない。全ては月夜の甲板で先任伍長真田広之)に向けて投げかけられた一等海士(勝地涼)のこの言葉から始まる。それは、夜の海に浮かぶ月をスケッチしていた真田広之がなかなか思うような色彩が出せずに難儀していたところに、やはり絵心のある勝地涼がちょっとしたコツを彼に伝えて、わだかまっていた二人の心が少しほぐれる物語的に重要な場面で発せられた言葉なのだが、それまで青系統で統一されていた画面の中に徐々に、文字通り赤色が侵入してくることをその言葉が予告していることを、この時、二人はまだ知らずにいる。訓練用の魚雷がクレーンから落下し、甲板が血の海となるのを合図とするかのように、それ以後、次々と人が死んでいき、画面はいっそう赤さを増すだろう。
だが、真田広之は訓練用の魚雷の落下に何故いち早く気づいたのだろうか。それは彼が常に上方を見上げる人だからである。彼と勝地涼の出会いの場面を思い出してみよう。乗艦の前夜に地元のチンピラたちと大喧嘩をし、たった一人で相手の全員を倒してしまった勝地涼は、地元の警官に捕まりそうなところを間一髪、真田広之の機転で難を逃れる。その時、真田広之は警官の前に土下座をし、それでも許そうとしない警官の左の靴を手で押さえて、その歩みを止めようとするのだ。つまり、この作品における真田広之は、見上げることによって最終的に物事の歩みを停める人物なのだ。
一旦はテロリストたちの策謀によって下艦させられはするものの、艦の底部の裂け目から侵入し、無謀にも一人で敵の企みを阻止しようとする真田広之の行為は、しかしその味方となるはずの人物にも影響を与えずにはおかない。後半、彼の一言のせいで敵に向けた引き金が引けず、相手の凶弾に倒れることになる人物を私たちは目にすることだろう。物事の歩みを停める人としての真田広之のこれはネガティヴな側面である。端的に、人の足を引っ張るという風にも言い換えられる。事実、たった一人の味方が動けなくなるまでの彼の行動は全て裏目裏目に出ているようにも思えるのだが、彼の本質が物事の歩みを停めることにある以上、これは致し方のないことなのかもしれない。
艦の最底部からスタートした彼の試みは上昇運動を続ける。クライマックスに到って、この映画の空間の演出が垂直構造に貫かれているのを私たちは目にし、そのことに感動すら覚えるだろう。物語の要所要所で斜め上方に向けられた真田広之の視線が、ついに偵察衛星のキャメラの軸と垂直に重なりあう時こそ、特殊兵器を積んだイージス艦がその進行を停める瞬間に他ならない。その時、彼が手にしていたのが、白と赤(つまりは日本国旗を構成する二つの色彩)の旗であることは注意しておく必要がある。
ところでこの作品の主要な舞台は、シージャックされたイージス艦と、その対策を政府首脳が協議している会議室である。垂直の軸に従って空間演出がなされている前者に対して、後者は水平的である。しかも馬蹄形のテーブルに並んだ政府首脳たちは基本的に前方のスクリーンに視線を向けており、この問題の責任の所在を誰かに転嫁しようとする時にしか、誰かと視線を交わすことはない。適切な判断、適切な行動が求められている瞬間でさえ、この男たちは醜い自己保身に汲々としている有り様なのだ。これはイージス艦の内部で、せっかく敵を倒すチャンスに恵まれていながら、こちらの論理の通じない相手に向って大義を述べているうちに、逆に相手に撃ち殺されてしまう自衛官たちの姿とパラレルである。しかしこの男たちに全く魅力がないかというと、全く逆で『新・仁義なき戦い』の男たちのように彼らの面構えは皆、素晴らしい。男たちの顔を撮ることにかけて、現在、阪本順治の右に出るものはいないと言っていいだろう。不思議なのは何故、自衛官は引き金を引く前に能書きを垂れるのだろうということなのだが、殊によるとこれは今の日本に対する阪本順治の悪意なのかもしれない。またこの映画の政府首脳を物語的に多くの共通点を持つ『合衆国最後の日』(アルドリッチ)の政府首脳と比較してみた場合、あからさまに違うのは、会議室の空間構造である。面突き合わせて対策を練る後者に対し、前者はなすすべもなくスクリーンを見つめ、責任転嫁に忙しい。『合衆国最後の日』の大統領が自らの命をもって国を救ったのに対し、この作品の原田芳雄にはそういう気配が毛頭もない。現実の政治権力の構造の相違はこの際、捨象する。だが、間の抜けたようにポッカリと空洞になっている馬蹄形のテーブルの中心の不在はやはり日本社会のある特質を言い当てているように思えてならない。ロラン・バルトが名指した「空虚」。しかもそれが空虚であることによって効力を発揮するような何か。阪本順治は暗に「天皇制」について語っているのだろうか。「天皇制」に触れずに日本=国家を論じることほど馬鹿げたことはない以上、この作品におけるその直接的な言及の不在はある種、不気味でさえある。
なお、魅力的な女テロリストを演じたチェ・ミンソが物語の途中で姿を消してしまうのが惜しまれる。勝地涼チェ・ミンソが無言で撃ち合う場面に愛の表現を感じたのは私だけではあるまい。
さて、最後に真田広之の元にある人物から一通の封書が送られてくるのだが、私たちの目に飛び込んでくるその中身の絵はどんな色彩で描かれるだろうか。