カリフォルニア・ドールズが断崖絶壁から汚名返上

a)『死のロデオ』(ニコラス・レイ)★★★★


ヘリドロさんの本日の日記に感動させられたので、無断で全文引用させていただきます。

◆反復 人は二度泣く
その映画をスクリーンで観たのは昨年のことなので エラそうなことは何も云えないのですが。勿体ぶって「個人的な理由」などと書きましたが、 実はワタシはその映画を封切り頃に見ているらしいのです。両親が年端もいかぬワタシを連れて見に行ったそうで、 もちろん記憶はないのですが、ワタシは映画館の暗闇に恐怖でも覚えたのかぎゃあぎゃあと泣き始めたらしく親たちはいたたまれなくなり 映画を途中退出したと。 これがことあるごとに親から笑い話として持ち出され続けたりして、『サウンド・オブ・ミュージック』 は鬼門となったわけです(笑)。まあ、「個人的な体験」など所詮そんなものですが、「サイコ2割問題」でもそうですが、 結局、全ての映画を見ることが在り得ない以上、「卑屈」になる必要はどこにもなく、いつか見るだろう、という「可能性」が 映画体験には元々含まれている。成瀬にしてもワタシがこれまで観たのは『女の中にいる他人』のみ、然し、それが恐るべき「無知」で あったことは一気に理解できてしまうわけですね。 『浮雲』を観ずに映画を「語る」こと、それは在り得ないことだが、一週間前の自分がそうだったのだ。 ジュリー・アンドリュースの背景の青空に浮かぶ雲の形はフィルムに定着され、それは永遠に変わらない、然し、観る側の 人間は有限の生の中でそれを見る。その雲を見たときに涙が止まらなくなった。 その雲が発生することはもはや地球上のどこにもない。 いつか出会うものなのだ。そして出会わないものには永遠に出会わない。 経験とは経験したくないようなことを経験することである、とはフロイトの分析したジョークだが、 「観ていない」ということは「可能性」のすべてであるが、それを経験したくなかったことと思うこと、 つまり一週間前以前のそれまでの経験に愕然とすること、いつでも「遅れ」ていることは我々の「条件」に過ぎないし、 「現代」の作品に「遅れ」ることを恐れることも本末転倒である。雲の形は、高峰秀子の片足跳びは、フィルムに定着されている。 それは「教育」の問題ではない。◆とめどなく意味不明な文章でありつつ、なにかしら充分エラそうですね(笑)。 (2005/08/26)