ボニゼールとことんシナリオを語る その1

a)『バクステル、ヴェラ・バクステル』(マルグリット・デュラス)★★★
b)『マルグリット、あるがままの彼女』(ドミニク・オーヴレイ)★★
c)『自由、夜』(フィリップ・ガレル)★★★★
d)『トップ・ハット』(マーク・サンドリッチ)★★★★
e)『豹男』(ジャック・ターナー)★★★★


映画批評家映画作家パスカル・ボニゼールがFEMISのために書いた『シナリオの練習』(ジャン=クロード・カリエールとの共著)のうち、彼が担当した「シナリオの問題」の全訳をこれから数回に分けて掲載します。(訳:Contre Champ))


目次
1.シナリオとフィクション
2.オリジナルなシナリオはあるか?
3.映像は物語る
4.語り手と語られ手
5.登場人物と出来事
6.嘘と身体
7.終えること


1.シナリオとフィクション
「あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は―同時に―すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。(…)たとえば、フアンという男が秘密を持っているとします。見知らぬ男がドアをたたき、フアンは彼を殺す肚を決めます。当然、さまざまな結末が考えられます。フアンが侵入者を殺すかもしれないし、侵入者がフアンを殺すかもしれない。二人とも助かるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれない、というわけです。崔奔の作品では、あらゆる結末が生じます。それぞれが他の分岐のための起点になるのです」(ホイヘ・ルイス・ボルヘス「八岐の園」『伝奇集』所収、鼓直訳、岩波文庫
 崔奔、「およそ解きほぐしようのない崔奔」は、ボルヘス自身が示唆しているように、おそらく模範的、理想的、完璧な小説家ではない。逆に彼はシナリオライターの模範として振舞っているのかもしれない。
 あらゆることが小説にできるわけではない。だが、あらゆることがシナリオになるようにみえる。たとえば、宇宙の起源は小説の主題にはならない。少なくとも、それには主人公がいない。だが、それはシナリオの主題になる。「ビッグ・バン」の理論は宇宙の誕生についてのシナリオである。*1
 「それはそのように起こった」。あるいは「このようにそれは起こりうる」。もともとシナリオは、まず以下のようなものだ。ありうべき、ある出来事=事件、ないしはある出来事の連なりの、程度の差はあれ、正確で、首尾一貫して、体系的で、できうれば理解可能で、魅力的な記述。
 シナリオライターの第一の資格は、出来事についての感覚を持っていることでなくてはならないだろう。
 小説はまた別である。それはエクリチュールのかたまりであり、そこにおいて、言葉は指示的な機能を持つだけでなく、それ自身価値を持たなくてはならない。シナリオは、その形式において、不安定なフィクションであり、そこでは、言葉は、会話の言葉を除いて、偶然的なものであり(それは映像のかわりにそこにある)、分岐はつねに可能であり、結末はつねに、程度の差はあれ、不安定で、変更可能であり、それは、紙の上での(それがある本、または連載漫画のシナリオである場合)、またはセルロイドの上での(それが映画である場合)演出=現実化が、出来事の連鎖、連なりの脅威的な増殖を止めるまで続く。
 「たとえばフアンという男が秘密を持っているとする…見知らぬ男がドアをたたく…フアンが侵入者を殺すかもしれない…侵入者がフアンを殺すかもしれない…」このような記号体系は小説の技術には属さないが、シナリオライターの関心事である。シナリオライターはしばしば、物語の感情的な昂りの大きさや道徳的な教訓を最適化するために、物語のいくつもの可能なこと、さまざまな方策の中から選択しなくてはならないことに気づく。シナリオを書くために、私たちがよく二人、時には三人でいるのはそのためである。すなわち共同脚本家、あるいはシナリオライターと作家=演出家。私たちは、時間の連続的な横糸のなかで、分岐し、収束し、平行的な出来事の無限の網目のなかで、最良の解決を探求する。一方が「フアンが侵入者を殺すかもしれない」と提案する。すると他方は「侵入者がフアンを殺すかもしれない」と言う。
 シナリオの観念には、同時に人を不安にさせたり、安心させたりするところがある―一方では、それは陰謀〔complot〕の概念を参照させる(プロットとは、陰謀=筋立てをさす英語の表現である)。他方、それは、さらにひどいことに、ある状況、ある出来事の連なりが、すでにカタログ化され、制御可能な図式、約束事に対応することを示している。
 いずれにせよ、私たちがある物語を書くとき、私たちが作っているものは、いつも一種の爆弾の模擬実験、幻影である。それはつねに、私たちのシナリオの主題を形づくるような、控えめなあるいは劇的な、悲劇的なあるいは喜劇的なドラマ、危機、カタストロフィであろうし、いわばシナリオはつねに「カタストロフィ理論」である。
 「映画、それは地獄の機械である。いったん導火線に火がついて、動きはじめたなら、それはものすごいダイナミズムで作動する。それを止めることはできない。後悔したり、何であろうと前言を取り消したり、理解するまで待ったり、釈明したりすることはできない。それは避け難い爆発まで熟するだけである。最大の巧妙さと最大の悪意で、アナーキストのようにそれを準備する私たち[シナリオライター]にとってのこの爆発…」。『プラーター・ヴァイオレット』のなかで、演出家のベルイマン(イングマールとはほとんど関係がない)は、そのように自分の考えを表現し、その本でクリストファー・イシャウッドは小説化されたかたちで、シナリオライターとしての最初の経験を語っている。*2
 「決定者」(政治家や経営者)が争議や危機の場合に「私が最も恐れているシナリオは…」などと表明するのを耳にするとき、最悪の事態がすでに想定されていること、いわば、その物語が前もって知られていること、それによって、ある仕方で、出来事の結果が何であり、それはすでにシナリオという間接的な方法ですでにシミュレートされていると想定されること、したがって受け答えや解決策は前もって引き出されていることを私たちはよく知っている。同じように、映画において、シナリオは、映画そのものであるカタストロフィの空間を手なずけるのに役立つ(そしてそれは監督にとってだけでなくプロデューサー、さまざまな関心をもった人たちにとっても価値がある)。
 フアンが侵入者を殺すかもしれないし、侵入者がフアンを殺すかもしれない…だが私たちが選択するとき、もはや後には引き返せない。機械は作動状態にされ、最後まで進まなくてはならない。それは、ボルヘスの神話が表象する「無限のシナリオ」、すべてのシナリオについてのシナリオとは反対に、進行の規則を定める。映画の各シーン、各運動が二度と開かない扉を閉め、強制的に、物語が通らなくてはならない別の扉を開くのだが、それは、必然的な結末へと向かって徐々に狭くなっていく道を通過する。

*1:近頃では、科学雑誌の最初のページに、とても平凡な次のような見出しが読まれるだろう。「気候・新たなシナリオ」。また政治的、産業的、等々の状況の現実の進展を描写するのにも、シナリオという言葉がよく口にされる。このことは、シナリオとよばれるこの逆説的な対象がまず第一に誰のためのものかを示している。すなわち、それは今日、「決定者」と呼ばれている人たちのためのものである。それは、映画のシナリオについても同じように当てはまる。シナリオはプロデューサー、俳優、監督―彼らによって、紙でできた映画は、セルロイドでできた映画に変わる―にまず訴えかけ、そして魅了するためにある。

*2:Christopher Isherwood, La Violette du Prater, U.G.E. (10/18), p. 56.