クリス・フジワラ講演会/ボニゼールとことんシナリオを語る その2

アテネにてクリス・フジワラ氏の講演会。客席の1/3ぐらいが映画批評家で占められていた。しかも蓮實先生を筆頭に凄い面子。
講演の内容は、ジャック・ターナー成瀬巳喜男オットー・プレミンジャーの三人の映画作家に通底するテーマとして、様々な葛藤の渦巻く場としての「家」(home)とそこからイニシエーションの「旅」へと出かける「女性」たちについて論じられていたはず(話が錯綜していたので、ついていくのに一苦労)。
参考上映で抜粋されていた作品は、『インディアン峡谷』『豹男』『私はゾンビと歩いた』(以上、ターナー)『おかあさん』『歌行燈』(以上、成瀬)『悲しみよこんにちは』『疑惑の渦巻』(以上、プレミンジャー)。なお、時間の都合で上映されなかったが、『妻よ薔薇のやうに』(成瀬)をみれば、彼の議論の全てがすらっと繋がるとのこと。
講演後の質疑応答もなかなか濃ゆかったのだが、フジワラ氏のジャック・ターナー論の序文を書いている某アメリ映画作家(M.S.)について、蓮實氏が、もしジャック・ターナーの映画を彼が本気で見ていたら、あんな映画を撮らないと思うのだがどうだろうか、という質問をしたので場内爆笑。フジワラ氏も、ここは日本だからということでオフレコで同意していた。
今日もまたMさんの御好意で、その後の呑み会に参加させていただく。
なお、参考までにクリス・フジワラ氏がこれまで三人の巨匠について、それぞれ論じた批評を以下にリンクしておきます。
成瀬巳喜男 http://www.filmlinc.com/fcm/so05/naruse.htm
ジャック・ターナー http://www.insanemute.com/content/leopard.htm
オットー・プレミンジャー http://www.sensesofcinema.com/contents/directors/02/preminger.html

Jacques Tourneur: The Cinema of Nightfall

Jacques Tourneur: The Cinema of Nightfall

  • 作者:Chris Fujiwara
  • 出版社/メーカー: Johns Hopkins Univ Pr
  • 発売日: 2001/05/10
  • メディア: ペーパーバック


(昨日の続き)
2.オリジナルなシナリオはあるか?
 シナリオはつねに、物語言表、物語内容、主題の伝達可能性や適応性を前提としている。それは変化、反復、系列に属している。「国立図書館には一万二千の主題がある」と、ボルヘス的なとっさの思いつきで、ミシェル・オーディアールは言った。脚本選定委員会のメンバーは台本の無数性、無限の増殖についてのこの印象をよく知っており、それらのなかから、実際の演出=現実化のきっかけとなりえ、その価値のあるごく少数、数部のシナリオを選ばなければならない。
 そんなわけでシナリオに含まれる物語は「時間の無限の系列、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目」に属するようにみえる。「われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人ともに存在する。好意的な偶然が与えてくれたこの時間に、あなたはわが家を尋ねてこられた。べつの時間では、あなたは庭園を横切ろうとして、わたしの死体を見つけられた。さらにべつの時間では、こんなことをしゃべっているわたしは、ひとつの誤謬であり、一個の幻なのです」。*1
 こうも付け加えられる。ある時間に物語は喜劇的で、べつの時間ではそれは悲劇的である・・・。あらゆる歴史的な事件は二度起こるが、それは一度目は悲劇として、二度目は笑劇としてである、というマルクスの格言は、シナリオライターの思想である。そんなわけで、同じ物語は大体、一度目は真面目に、二度目はパロディ的に扱われうる。このやり方で、モニッチェリは、『男の争い』(それ自体、ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』に着想をえた、ある「科学的な」強盗の物語)を見た後に、『鳩』〈未〉の企画を思いついた。つまり同じ事柄だが、喜劇的な様式で。*2
 私たちは出来事を扱わなくてはならないが、それを扱うには、物語の受け手(まずはプロの脚本審査係、その先に観客)が関心を持ち、「ひっかかる」ことで、この物語が、それに似ていて、何千もの違った仕方で、何世紀といくつもの伝統にわたって、すでに語られた多くの物語であるという本質的な不満の声から、ある仕方で、脱するようなやり方でなくてはならない。
 上手にやろうとするよりは紋切り型から出発するほうがいいという、ヒッチコックの名言に耳を傾けるのも、一つの方法である。人は新たなもの、今まで口にされたことがないもの、今まで見られたことがないものから出発していると信じているとき、しばしば、そうとは知らずに、ステレオタイプのぬかるみのなかを歩いているものだ。ロメールは書いている、「少しでもよく考えればオリジナル脚本など存在しないことがわかる。オリジナル脚本と称するものは多かれ少なかれ、ほとんどなんらかの劇作や小説から剽窃しているし、とりわけそこから状況や問題設定を借用しているのはあきらかだ」。*3
 それは映画だけに限ったことではない。たとえばフランス古典劇やラ・フォンテーヌの寓話を、そのシナリオという観点からのみ考察してみれば、そこではすべてが古典古代の、タキトゥス、イソップ、等々の模倣であることがわかるだろう。真のオリジナリティーは最初の一瞥で見い出されるものではない。それはしばしば、伝統的な骨子のうえでの秘密の配置やときにはわずかな配置替えから生じる。おそらくロメールが言おうとするのは、オリジナリティーとはエクリチュールや演出の問題であり─オリジナルな物語の問題などは存在しないということである。
 したがって「反復」の概念は、この意味でつねに多少ともシナリオの観念と不可分のものである。シナリオというものが存在するやいなや、あたかも、実際の状況が、すでに知られ、分類され、カタログ化された、あるタイプの連鎖、因果性や論理的一貫性にしたがうかのように、すべては行われる。
 物語の数は無限であるが、それらが構成する劇的、叙事的、喜劇的な状況のタイプは限られている。「ゴッチは悲劇の局面は三十六しかないことを主張した。シラーはそれ以上を発見しようとして苦心したが、ゴッチが数えたほどにも達し得なかった」とゲーテは『エッカーマンとの対話』のなかで記している。そして十九世紀末に、この例に力を得て、ジョルジュ・ポルティという人が、『三十六の劇的局面』を一覧表にした本を書いた。その章の見出しは次のようなものである。「22.情熱のための犠牲、23.愛する者を犠牲にする場合、24.愛欲の罪」(著者はそこで八種類の性的犯罪を記している)等々。*4
 あらゆるシナリオが、状況の型、連鎖の型の横糸を土台に、語られる物語がその時、従い、逃れようとする(もし人がそれに関心を持とうとすれば)あるステレオタイプを土台に上昇するというのでなければ、これは何を意味しているのだろうか。
 一本の映画におけるシナリオの重要性は、演出および/あるいは製作の方法によって、多少とも高くなりえるが、それはつねに、ハリウッド映画において、成功を収めた一本の映画(シナリオ)の数度にわたる変奏を戯画的に明らかにする反復の不可避性を示している。『ジョーズ』『エルム街の悪夢』『13日の金曜日』等々。
 その上、最近の例では、シナリオでなければ、少なくとも物語自体が、成功を収めた状況の型(不死の殺人者がのんきな若者たちの一団を肉屋のように大量殺りくする)の反復の下に消え失せている。そこには、最も単純な表現にまで縮減された、殺人についての「シナリオ」のぞっとするような変奏しかない。だが、シナリオの観念がみだらなむき出しのままの姿で現われているのは、おそらくその時である。その時それは幻想のうむことのない組み合わせ、つまりポルノグラフィに接している。
 臨床医が、倒錯的とよばれるものの行動の基礎となる支配、服従、その他の、時に複雑な手続きを喚起するために、「倒錯的なシナリオ」の観念をつくりだすのは、きちんとした理由がある。
 おそらく次のように考えることは、人を安心させる。誰かが従わされようとする残酷な行為であるようなものは、すでに書かれた計画、叙述の横糸、ある種の客観的なドラマの一部であり、私たちは、無関心を装うことで、観客であるとともに、そこから情報を引き出すことができる。
 おそらく専門的な意味のシナリオは別のものである。だが、臨床的、性的、予見的な観念は、それを汚染することなく、あらゆる場合に次のことを強調する。シナリオライターの仕事は、作家や文学者や小説家の実践とは異なる。エクリチュールは、演出がそうであるように、シナリオの反−実行である。
 小説家は「書く」が、一方、シナリオライターは「企み、語り、描写する」。エクリチュールは彼にとって偶然的なものである。決して書かず、白いページとは何の関わりも持たないシナリオライターを思い描くことさえ究極においてできる。
 原稿から小説の決定的な形が結晶化する書物までの間には、多くの変化(作家がゲラ刷りに著しい変更を入れることは知られている)がありうるが、性質の違いはほとんどない。つねにエクリチュールが問題である。
 映画のシナリオについては、変化は全体的である。そのためシナリオは、その信頼性がまったくの懐疑、まったくの手直しを被りやすい移行的な対象という地位をつねに持つだろう。この不明確で、曖昧で、不確実な性質から「シナリオ−コンクリート〔beton〕」という職業的な神話がおそらく─そしてそれを追い払うために─生じる。政党の討論の「地盤固め」〔betonnage〕(そこではこの比喩は可能な議論を全て閉じてしまうことを意味する)を喚起する、このいやな言葉は、収益力を確かな仕方で予測することができない企画に賭けることをつねに強いられている、プロデューサーの不安を参照させる。だがそれはまた、自分の演出の方法にほとんど確信が持てずに、極端な場合には、彼に演出を指示するテクストにすがりたいと思うときの監督の不安を参照させる。
 シナリオ−コンクリートなどというものはない。出来の良い小説と悪い小説があるように、出来の良いシナリオと悪いシナリオがあるだけだ。ただ単に、シナリオでは、小説とは逆に、言葉はそれ自体価値はなく、シナリオはそれ自体作品ではなく、ある潜在的な映画の言葉によるアウトラインであるに過ぎないということである。「良いシナリオ」は良い映画の十分な保証には決してならない。素晴しい台詞、力強いシーン、心を奪う語り口、魅惑的な物語といったものは、締まりのない演出とへたな俳優によって、いつでも水の泡になりえる。
 シナリオの相対性。「映画の文学など存在しない。演劇の場合も事情は同じであり、いかなる舞台も、霊感を与え、考えうるかぎりの無数の演出に挑み、自らに奉仕させるためにそれらの演出を動員することができる文学作品、《戯曲》とは似ても似つかない。映画においては力関係が逆だ。演出は女王であり台本は下僕である。ある映画の台本はそれだけではなんの価値もない」とロメールは決定的なことを書いている。*5
 「言葉それ自体を気にかけることが、映画において致命的であることは明らかである。映画はそれには適していない」とレイモンド・チャンドラー(彼は小説家として言葉それ自体を愛し、シナリオライターとしてハリウッドで苦しんだ)は、彼としては、おそらく特に台詞のことを考えながら記した。*6
 シナリオでは言葉はそれ自体としての価値がないというのは、具体的にどういう意味だろうか。小説がたとえば「ブルドン通りでは33度の気温だった」と始まることは、事実の表記である。それは、あるスタイル、あるエクリチュール、ある文学的体系、さらにある流派、と同時にある歴史の開始の合図である。シナリオライターの問題は別にある。彼は「ブルドン通りでは33度の気温だった」という記述を、それが物語において重要であることを前提として、まず映像に翻訳しなくてはならないだろう。彼は可能な選択肢のなかから、ショーウィンドーのなかの温度計、天気予報の時間のラジオ、エナメルの表示版、等々を探さなくてはならないだろう。あるいは人は、32度か33度かは後に続く出来事においては重要ではないので、次のように示すことで満足するかもしれない。
 ◯ブルドン通り、昼の屋外
  通行人は半袖のシャツを着ている。彼らは午後の強い日差しのなかゆっくりと歩いている。彼らのなかにはベンチにぐったりと座り込むものもいる。その上着は脇に丸められている。彼は汗で覆われた額をハンカチで拭っている、等々。
 それぞれの言葉はそれ自体重要ではない。それは、演出を示唆し、それを通して、状況を引き出すのに貢献しなければならない。それはショット、映像、音、演技、スタイル─もちろん演出の─だけでなく、また製作設備、撮影条件、金銭を参照させる。「通行人」は「エキストラ」(したがってエキストラのギャラ)を示し、「強い日差し」(あるいは「まぶしい」ないし「目を眩ませる」。言葉の選択はどうでもよいものではないが、作り出すべき視覚的効果の近似値にしか過ぎない)は重い照明機材やレフ板をもたらす等々。そしてそれら全体は、特別な予算が割り振られていて、スタジオで作られるのでなければ、その映画が夏に撮影されなくてはならないことを前提としている。
 シナリオライターは書くときにこうしたこと全てを当然考えないが、物語の一貫性と強度を最初に頭の中に抱いているほうがいい。だが、台本にあるちょっとした記述が、演出がそれを引き受ける際に、とても重要であると突然明らかになることがある。例えば、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(私がこれを書いている時点[1990年]でまだ完成していない)の中の「ミシェルはセーヌ河で水上スキーをし、アレックスはモーターボートを操縦する」という記述。「台本において二行で示されている、この崇高なシーンの予算は五百万フランだと見積もられている」(『ル・モンド』紙、1990年5月17日付)。

*1:ボルヘス、前掲書。

*2:メル・ブルックスは、ある映画のタイプの滑稽なパロディ的な活用によって、その全キャリアを築いた。『フランケンシュタイン』『スター・ウォーズ』等々。

*3:エリック・ロメール『六つの本心の話』、細川晋訳、早川書房、六頁。

*4:George Polti,Les Trente-six Situations dramatiques,《edition revisee et augmantee comportant trois index bibliographiques des oevres et des auteurs cites》,Editions d'Aujourd'hui,1980.

*5:エリック・ロメール、前掲書、六−七頁。例外を挙げることができる。例えば、『ママと娼婦』のテクストは舞台で演出された。だが、例外について考えなくてはならないことは知っているだろう。その反面、映画が現代文学に大きな影響を与えたことを、多くの例を通じて証明することができるだろう。だがそれは、ある時はショットのスタイル、ある時はモンタージュであり、シナリオのエクリチュールそれ自体であることは滅多にない(ダシール・ハメットがあるいはそうかもしれない)。

*6:Raymond Chandler,Lettres,Christian Bourgois,p.194.