ボニゼールとことんシナリオを語る その4

a)『石の賛美歌』(ミシェル・クレイフィ)★★
b)『豊穣な記憶』(ミシェル・クレイフィ)★★★
c)『マアルール村はその破壊を祝う』(ミシェル・クレイフィ)★★
d)『バニー・レークは行方不明』(オットー・プレミンジャー)★★★★


(昨日の続き)
4.語り手と語られ手
 物語は、私たちがそれを語る何らかの仕方で、それが伝達される何らかの仕方で、必然的に、それを語る人とそれを語られる人、言うならば語り手と語られ手を含意する。語り手とは作者であり、語られ手とは観客(聴衆、読者、見物客)である。語り手の目的は、好評を博し、観客を魅了し、彼らに新たなものを見せることである。そのことは言うまでもないことのようにみえるかも知れない、だがそれは、物語の筋立て自体のなかで、おそらくあまり明らかではないような結果をもたらす。
 ミシェル・シオンはなされるべき重要な区別を強調している。「『狭い意味での物語』(つまりただ単に、シナリオを時間順に検討したときに『起こること』)と、語りと呼ばれたり、物語、言説、劇的構成、等々と呼ばれ、それ自体『この物語が語られる仕方』に関わる別の水準とのあいだの区別。とりわけ、出来事と物語のデータが観客の知覚に運ばれる仕方(物語の様式、隠され、そして明らかになる情報、時間、省略、強調の活用、等々)この語りの技術は、それだけでも、驚きのない物語に面白さをあたえることができる。逆に、まずい語りは、よい物語の面白さ、つまり『奇妙な物語』で成功を収めようとするとき誰でも試みるものを損なう」。*1
 シナリオライターは、演出家と仕事をするときに、とても具体的に、自分がそうであるところの語り手の役割に気付く。演出家の欲望に答えるとともに(さもなければ、彼はそれらを拒否するか、口先だけでそれらを受け入れる、したがって危険は彼の興味が弱まってしまうことにあり、物語は「重要ではない可能事」の沼地をさまよう)、彼を驚かすような出来事、分岐点、登場人物、台詞の言葉を、彼に提案することが重要である。
 それはおそらく、ジャンルによってではなく、語り手と語られ手の関係によって、物語を分けて考えるように、ジャン=クロード・カリエールに仕向けたものである。したがって、この観点から、三つのタイプの主要な物語がある。「それを知っている人から、それをおなじように知っている人たちへ語られる」もの(たとえば歴史的な物語、『ダントン』や『ジャンヌ・ダルク』、その登場人物、波乱、結末は知られている、したがってそれについての関心は、主人公、出来事についての独創的な観点、物語を語る仕方、語りに存する)。「それを知っている人から、それを知らない人たちへ語られる」もの(それはたとえば、作者は殺人者と殺人が起こった仕方を知っているが、観客は終わりまでそれを知らずにいなくてはならない探偵映画)。最後に、「ある人が自分の知らない物語を、それ以上にそれについて知らない人たちに語る」もの(そしてそれは 即興への沈潜である)。
 この分類は、あらゆる物語が既知と未知とのゲームであることを示す。あらゆる物語は、既知を豊かにするように、「新たなものを見い出すために未知に沈潜する」ことを機能として持つ。というのも、たとえ私たちが「自分の知らない物語を、それを知らない人たちに語る」としても、私たちが知っている、私たちが借りてくる、他人が私たちに語った物語の切れ端を用いて、私たちが前日あるいは午前中にカフェ、新聞、バスで、さらには夜の夢のなかで知った断片を用いて、私たちはそれをなすのである・・・。そして私たちが「自分の知っている物語を、それを知っている人たちに語る」場合、私たちは、多少ともその遠近法を変えるような未知で新たな要素を導入しようと気にかける、さもないと倦怠がすぐに語り手と聴衆を茫然とさせる危険があるだろう。
 ボルヘスの短い物語の登場人物が時間を「八岐の園」として叙述するとき、可能なシナリオの無限の全体のなかで、変化し、分岐し、対立する、まさに二つの役割を、したがって目下のところ彼らが現実化しているものにおける、明確で、秘密の、一つの役割を、彼らが必然的に演じていることを物語の語り手に説明しながら、彼は狡猾に語り手と語られ手を宇宙のシナリオ的横糸全体に含めている。「好意的な偶然が与えてくれたこの時間に、あなたはわが家を尋ねてこられた・・・」。ところで私たちはその後で、語り手が崔奔の手稿の所有者のもとへやってきたとすれば、それはまさに彼を殺すためであることを理解する。
 それは、あらゆる語り手は秘密の意図を持っていて、あらゆる物語はある意味で陰謀であるということだ。ボルヘスのいくつかの物語において、陰謀の物語はそれ自体、陰謀である(たとえば、『暗殺のオペラ』というタイトルで、エドゥアルド・デ・グレゴリオのシナリオをもとに、ベルトルッチによって映画化された『裏切り者と英雄のテーマ』)。宇宙に付け加えられることで、物語は宇宙を変化させ、それは時間のなかに新たな分岐、つまり運命の変化を導入する。彼は殺すかもしれないし、生き返らせるかもしれない、あるいは死の意味を変えるかもしれない。
 たとえば、キリストの受難ほどよく知られているものはない。だが、この物語には、奥深いヴァリエーションでそれを再び語るのを可能にする不可解な要素がある。正統的で、公式的で、神聖な解釈があるように、これらのヴァリエーションはしばしば異端的として、そのように排斥されたものとして考えられている。*2おそらく以上のことから、ポール・シュレーダーマーティン・スコセッシによって映画化された、カザンツァキスのヴァージョン『最後の誘惑』はスキャンダルを引き起こした。それは神聖な伝説のなかのユダの役割を完全に変形し逆転させる解釈である。ユダは、カザンツァキス=スコセッシの物語では、人の子に化身した神〔キリスト〕を裏切るだけでなく、「救う」のだ。ユダは、時間の襞のなかで、キリストの最後の誘惑─神性を放棄し、この世界の、マグダラのマリアとの、そして女たちとの幸福を享楽するという誘惑─を追い払い、彼を神聖な使命に立ち返らせるものになる。キリストの受難の物語はよく知られているが、その叙述は、シナリオ全体と役割の配分を変えるために、福音書の空隙と曖昧さを拠り所としている(形而上学的な原因としての力のない、レンズ豆の料理とデナリウス銀貨三十枚を除いた、いかなる理由でユダは救世主を売るのだろうか?)。こうして作者たちは、時の可能な分岐、平行世界のなかでは、キリストは人間である誘惑に屈し、臆病にも(人間的に)その神性を脱ぎ捨てるとほのめかしている。
 こうした遠近法の逆転において、物語の意味は変わる、だがそれは中心人物をそれぞれ動かす行動と情念の軸に応じてである。福音書では、受難は直接的にキリストの行動の結果である。『最後の誘惑』では、行動するのはユダで、キリストは苦しむだけだ。それはあたかも、一方が物語を語り、他方が語られるかのようである。キリスト教徒にとって、キリストがユダによって語られることは耐え難い。
 いずれにせよこの例が示しているものは、語り手と語られ手、作者と観客の基本的な役割がしばしば、物語の内部自体でフィクションの登場人物によって、反射され、与えられているということである。
 主人公がそれにおいて「私」といい、シナリオライターの関心を副次的にしか引かない第一の人物における物語が単に問題なのではない。『オセロー』のような戯曲では、ハンカチーフと姦通の物語を作り出すイアーゴーは語り手、つまり物語─デスデモーナの裏切りという作り話─を語るものであり、オセローは観客、つまり騙された語られ手である。したがって物語のモラルは、堕落した、邪悪で、危険な語り手が、彼の罠に観客、つまり犠牲者を導いていった後で、それが暴かれるのを見て、自分自身の作り話の犠牲者となるのを望む。
 ある登場人物という形式でフィクションのなかに含まれた「観客として」観客が自分を漠然と感じられれば、それだけいっそう観客の注意を引く、この反射と「奈落落ち」の現象を、私たちは多くの、特に映画的な物語に見い出す(それは、物語が読者、観客にとって鏡として機能することを前提とする名高い「同一化」のヴァリエーションである)。たとえばヒッチコックの『裏窓』において、まずグレース・ケリー(とても個人的な理由で関心を持つ)、次に友人の刑事(あまりにも専門的で、あまりにも凡俗で、要するにあまりにも芸術家的でないために、懐疑的な聴衆)、そして「最後に大事なことがひとつ」殺人者─彼がそのように命懸けで企んだフィクションのなかに語り手を(その言葉通り)つき落とす─という三重の形象のもとに、物語を観客に伝えるために、ジェームズ・スチュワートが、彼が関心を持っている夫婦殺人の物語を「作り出し」、それを「書いた」(大衆的なシナリオライター、つまりマッサージ師のテルマ・リッターの助けを借りて)かのように、全ては進行する。*3さらに最近では、よりはっきりと、デヴィッド・マメットの『スリル・オブ・ゲーム』のような映画では、全ての要素がトリックであるような物語のなかで、精神科医がその犠牲者である詐欺行為が、観客が捕えられる映画の陰謀=筋立ての隠喩となっている。
 そこで私たちは、ジャン=クロード・カリエールの分類の横に、二つのタイプの映画の区別を提案したいと思う。すなわち、「観客の頭のなかで全てが起こる」映画と「登場人物の頭のなかで全てが起こる」映画である。
 「観客の頭のなかで全てが起こる」映画とは、例えば、あらゆることがおそらく非現実的だが、私たちはそのことを知りつつも、自ら進んで出来事の現実性を信じ、登場人物は、状況に立ち向う自分たちの能力を時々疑う以外には、何も疑わないような、驚嘆すべきアクション映画である。とりわけ、ウォルシュからスピルバーグに至るアメリカの冒険映画や、さらにはソヴィエトの叙事詩的映画、叙事詩的SF映画(「スペース・オペラ」)・・・。それらは、要するに、登場人物が、与えられた状況の内部で、現実主義的であれ、夢のようであれ、疑いもなく彼らがその一部をなす、与えられた世界の内部で、ただちに行動するような映画である。
 「登場人物の頭のなかで全てが起こる」映画とは、反対に、フリッツ・ラングの『飾窓の女』がモデルあるいは原型であるような映画である。エドワード・G・ロビンソンはそこで、ファム・ファタルとの出会いの結果、罪を犯し、悪夢から彼が目覚めるまで、ゆすりの犠牲者となり、警察に追われることになる・・・。夢の手管(ベルトラン・ブリエの『真夜中のミラージュ』〈未〉、クロード・ルルーシュの『ヴィバラビィ』〈未〉で再び使われている・・・)は、あるいは期待はずれかもしれないが、この際、その重要性は、それが語りの方法の秘密を洩すところにある。物語は、うわべにおいてしか客観的ではなく、それは、彼が特権的な名宛人である謎のメッセージのようなやり方で、全て主要人物に向けられている。
 ヒッチコックの全ての映画はそのように、多くの場合ありふれた平凡な登場人物が陥る悪夢として作られている。このことは、『北北西に進路を取れ』をその模倣品、特にジェームス・ボンドものから区別するのに十分である。ところでこの原理は同じように、全く現実主義的な映画にも有効である(ヒッチコック自身はそれを『間違えられた男』で試みた)。イタリア・ネオ・リアリズムの映画=宣言である、デ・シーカの『自転車泥棒』では、仕事道具の喪失と、そこから生じる失墜は、『飾窓の女』の品位のある教授が、彼自身、幸いにもそこから目覚める悪夢の等価物である。構造は変わらない。したがって、物語が、文字通りに言えば、現実主義的か幻想的か、「客観的」か「主観的」かは重要ではない。問題は、出来事がある登場人物を指向対象としているかどうか、いわば、彼の視線によって屈折させられているかどうかを知ることにある。
 もっとも精巧にこのシナリオ的構造に磨きをかけたのは、おそらくロメールである。『六つの本心の話』のなかで、彼は示している、「すべては語り手の頭の中で起こるのだ。誰か別人によって語られていたならば、物語は違うものになっていたか、あるいはまったく存在していなかったはずだ。わたしの主人公たちは、どこかドン・キホーテのように長編小説〔ロマン〕の登場人物を気どっているが、おそらくロマンなどどこにもないのだ」。*4可能な限り、現実、日常生活、「人間的記録」の近くで映画を撮ることで知られている映画作家にしては、この断言は奇妙である。だがそれは、ロメールの登場人物が、間近から見られれば、「解釈する人」だからである。些細な出来事、毎日の生活のもっとも取るに足らない裂け目(たとえば『緑の光線』のデルフィーヌにとっては、通りで見つけたトランプ札、緑色、『モード家の一夜』の登場人物にとっては、雪と雨氷、等々)を通じて、彼らが自分の手でこれらを運命に、偶然を摂理に変えることから(前述の『緑の光線』におけるように、最後の瞬間に時々、彼らを救いにやってくる作者の助けを借りて)、現実は彼らに徴を送る。
 それゆえ映画において、語り手の機能は、文学におけるこの機能の単なる置き換えではない。それは「画面外の」声ではない。それはむしろ文学において「アンチ・ヒーロー」と呼ばれるであろうもの、つまり古典的な主人公の現代的、非英雄的、神経症的な転身である。語り手は物語を「支え」ない。彼は物語が到来するところのものなのだ。
 それは、たとえば複雑で起伏に富んだ一作目の『ランボー』と、主人公が、シナリオ同様、明らかにロボトミーを受けている、単純化され内容のない続編とを区別するものである。だが、記憶を反芻する(したがって問題を提起する)のを止め、症候を癒した登場人物が、ヴェトナムの退役軍人が具現化できなかった「ヒーロー」をレーガンのアメリカがそこに認めた、この完全で、無感覚で、失語症の殺人機械になったのは、まさにこの脳手術による。最初の『ランボー』では、登場人物の頭のなかで全てが起こる。続編では、観客の頭のなかで全てが起こる。
 この区別が、ロジェ・カイヨワが「おとぎ話的な」ものと「幻想的な」ものの間に打立てた区別に合致するのは、おそらく偶然ではないことに注意しよう。おとぎ話の領域では、そこに住む妖精、魔法使い、食人鬼、さまざまな精霊は、その世界が想像上の遠方(「当時・・・」、「昔々あるところに・・・」)に位置していればいるほど、均質で流動的な世界のなかで、人間と同一平面に生きていると実質上、作者が説明している。魔法と自然の間には断絶はない。反対に、幻想的なものは「現実世界の堅固さを前提とするが、それはよりいっそうそれを破壊するためである。(・・・)幻想的なものの本質的な手続は「出現」である。すなわち、まさにある点とある瞬間に、完全に正確な位置を割り出され、誤って神秘が永久に追放されたと判断された世界の中心に、起こりえないが、それにもかかわらず生じるもの」。*5
 カイヨワは示していないが、この「現実世界の堅固さ」、「正確な位置を割り出された世界」(「幻想的なものの環境は『眠れる森の美女』の魔法の森ではなく、現代社会の管理された陰鬱な世界である」)を代表し、「出現」の主体として、つまり幻覚にとらえられた、眠っているかもしれない、狂気であるかもしれない(多くのフィクションはこの曖昧さと戯れている)、だが空間と時間の裂け目によって、とりわけ最悪のものを含んだあらゆるものが起こりえるこの「トワイライト・ゾーン」のなかに実際に引きずり込まれたかもしれない主体として記された登場人物を、幻想的なものはそれゆえ内に含む。それは懐疑の苦悶のうちにある、観客の分身、デカルト的主体である。
 カイヨワが定義した意味において、幻想的なものはそれゆえ、あらゆる物語を構成しているものの、超自然と恐怖の意味における演繹にすぎない。彼が「出現」と呼ぶものは、出来事、登場人物を物語に引きずり込む平穏な世界の裂け目である。

六つの本心の話

六つの本心の話

*1:Michel Chion,Ecrire un scenario,Cahiers du cinema-I.N.A.,p.73.

*2:ジャン=クロード・カリエールルイス・ブニュエルの『銀河』は、キリスト教の教義の奥義が生ぜしめる、異端の驚くべき喜劇的なカタログを構成している。それを原理と呼ぶなら、それはそこから次のようなものとなる。サン=ジャック・ド・コンポステルへの道中の二人の放浪者が、その巡礼中に、受肉、三位一体、等々についての自分自身の解釈を「語る」多少とも幻想的なあらゆる種類の登場人物に出会う。彼らの中には、修道僧、俗人、それに精霊、寓話的人物、悪魔、サド侯爵がいる・・・。

*3:私たちはむしろ一般的に、やむなく動けず、窃視症に追い込まれた、映画におけるジェームズ・スチュワートの位置と、観客の位置とを同一視する。それは部分的には間違っていない。彼を演出家=作者とみなすのはいっそう正しいように私には思われる。さらにジャン・ドゥーシェが『ヒッチコック』のなかで示しているように、多くのヒッチコックのフィクションは演出の隠喩であり、多くの男性の主人公はヒッチコック自身の転身、反映である。

*4:前掲書、五頁。

*5:Roger Caillois,Obliques,Gallimard,p.21. 〔邦訳『斜線』思索社