ボニゼールとことんシナリオを語る その6

a)『艦隊を追って』(マーク・サンドリッチ)★★★★


(昨日の続き)
6.嘘と身体
 物語の登場人物たちはいつも目隠しされている。そのことは黄金律でなくてはならないだろうし、作者の透明な分身であるような登場人物の大きく開かれた目を通して私たちに出来事を伝える、「個人的な経験」をあまりにもしばしば移し換えたようなシナリオから、私たちを保護しなくてはならないだろう。
 物語の登場人物たちはいつも目隠しされている、なぜなら、あらゆる人と同じように─そして特に観客と同じように─彼らは同時に物や存在の一面しか見ることができないからである。夜、泥酔しているときは素晴しく寛大な人は、昼間しらふに戻ると、吝嗇と軽蔑の手本である。しらふでいるとき、彼は酔いが表わす彼自身の一部分には盲目であり、逆もまたそうである。夜、彼を知っている人にとっては、もう一人の彼自身は未知の人であり、その出会いはおそらくショックであり、トラウマであるだろう。
 物語の登場人物たちはこうして二重に目隠しされている。自分自身について、そして他人について。それゆえ私たちは時に、友人のひとりが犠牲者だとみなされている裏切りや、彼が悩むべき奇癖について、彼の「目を開く」ことにとても関心を持つのである。私たちは、友人が「自分を偽るのをやめる」ことをとても望むだろう。そして私たちが彼の徴候に目を向け(あるいはより下品な言い方では、鼻を糞に向け)させようと決断─危険な─するとき、私たちは時々、それが引き起こす連鎖的なドラマに驚く。それは、私たちが思い描いていた以上に、私たち自身がそれに巻き込まれているということである。

 プルーストは、中心人物たちの無意識の模倣を社交界の策謀のなかに発見することで、「パリスコープ」〔フランスの情報誌〕のカテゴリー風に言えば、「心理劇」を大いに豊かにした。人が他人のスノビズム、同性愛、虚栄心を暴くのは、彼自身がスノッブ、同性愛者、見栄っぱりだからである。人が他人から怠惰や愚かさを追い出すことにとても関心を持つのは、彼自身がそのことに悩んでいるからである。
 だが、その時から、私たちは盲目となり、私たちの動機は私たちに嘘をつかせるのである。
 「映画では人はさほど嘘をつかない」と、嘘を彼の映画全体の主題にするはるか前に、ロメールは嘆いていた。*1それは、映画が嘘の効果とダイナミズムを特権的なやり方で示すということである。映画は、言葉と同時に身体を、つまり行動と言葉との間の、想像した状況と現実の状況との間の、身体が表わすものと言葉が表わすものとの間の「ずれ」を記録する。
 手は、口が話している間、何をしているのだろうか。
 手は、それが淫らで内密な策略に耽っていることを、あるいは、恐怖のために汗をかいていることを洩している。
 口が話している間、手がすること─これこそ演劇が提起することのできない問題である。それは、演劇では身体と口の間には差異がないということである。時には、ベケットの作品のように、もはや口しかない。
 だが、映画では、私たちは、身体が細分化されていることを思い出さなくてはならない。偉大な映画作家たちはしばしば、口が告げているのとは別のものを手が表わしていることを示すことができた。ブレッソンは、口の言葉と矛盾し、別の仕方で、平行して、そのうえ残酷に、自らを表現する手の言語全体、非常に独特な身振り全体を作り上げた。
 
 そして目は、口と手が別のものを表わしている間、何を表わしているのだろうか。
 次のような月並な場面の演技はよく知られている。若い女性が愛人の腕に身を投げだし、顔を彼の胸に埋める。そして彼は、感情を込めて、優しく彼女を腕で抱きしめる。だが、虚空に向けられた彼の視線は、倦怠と心配事を物語っている。
 手と目の間の、身振りと視線の間の「対話的」「ポリフォニー的」な対立に立脚したこのような場面は、映画の劇的な特殊性を表現している。
 ベラ・バラージュは、この種の観念における、「ポリフォニー」のより洗練され、より深い方法を指摘した。「エイゼンシュテインの或る映画[『全線』]のなかの、農民たちの前で歌っている牧師は、何という姿形の美しい人物であろう。流麗な声の響きは、彼の崇高な貴族的容貌やいかにも聡明そうな眼差しを、いやが上にも輝かせる。それは文字通り聖者の姿である。ところが、ひとたびカメラが一方の眼を他から切りはなして狙うと、花しべの中から這い出す虫のように、美しい睫毛の下から抜目のない冷たい眼差しがのぞく。次に美男の牧師は頭をめぐらす。クローズ・アップは彼の後頭部と一方の耳たぶを背後からとらえる。すると、そこには紛れもない卑俗な地主の利己主義が、はっきり刻印されている。この頭の部分の性格表現は、まことに痛烈であり、圧倒的な説得力を持っている。またそれはたいへん嫌らしく表現されているので、その後でもう一度彼の高貴な顔があらわれると、それは、もっとも危険な敵を背後にしのばせている偽装された堡塁のように思われるほどである。」*2
 確かに、そこでは、歴史的に日付を確定された、独特な造形的方法─エイゼンシュテイン的「断片」─と、おそらく(だが別の意図をもって)フェリーニの作品や、フランスではマイナーな仕方でジャン=ピエール・モッキーの作品以外には、今日ではもはやほとんど等価物を見い出せない、十九世紀の偉大な風刺画(ドーミエ、グランヴィル)から霊感を得たイデオロギー的なタイプ化〔typage〕の技術が問題である。それはおそらく、語りに属するものを横切って、ある場合には、描写のわずかな輪郭で、ある登場人物の性格や形象をはっきりさせることができなくてはならない程度に応じて、シナリオ的なエクリチュールに関係する。だがそのシーンの観念、感情は、ここでは直接的に演出、モンタージュのスタイルの着想に属している。
 ある意味でいっそう素晴しく、おそらくは演劇から─メロドラマあるいは軽喜劇から─純粋に視覚的であるために、しかし純粋に映画的な空間─純粋な「顔面性」の空間─に移し換えられた、陰謀の劇的着想から直接的に生じる以下の例においては、事情は同じではない。ここでは、細分化されているのは、表現そのものである。「アスタ・ニールセンはかつて、金持の青年を誘惑するために雇われた女を演じたことがある。彼女を雇った男がカーテンのかげに隠れて、彼女を監視し、結果いかにと見守っている。監視されていることを知って、彼女は偽りの愛情を装う。彼女はそれを実に真にせまったやり方で演じる。愛の表情の全音階が彼女の顔にあらわれる。それにもかかわらず、われわれはそれがたんなる演技であり、偽りであり、仮面にすぎないことを知る。ところが、場面が進んでゆくにつれて、アスタ・ニールセンはその青年を本当に愛してしまう。彼女の顔の表情はほとんど変わらない。彼女はこれまでずっとその表情で愛を示してきた─しかもそれはまったく真にせまっていたのだ。本当に相手を愛するようになったいま、ほかにどんな愛情の示し方があるだろう?彼女の表情の変化はほとんど見分けられないほどであるが、にもかかわらず、ニュアンスの変化は誰にもすぐにわかる。そして以前には偽りだったものが、いまや本当の深い愛情の表現になったことがわかるのだ。その時アスタ・ニールセンは、ふと、監視をされていることを思い出す。カーテンのかげの男に、もはや偽っているのではなくて本当に愛を感じているのだということを、その顔色から読みとられてはならない。そこでアスタは、再び、偽っているふうを装う。(・・・)ところで、いまやこの瞞着が偽りなのだ。彼女は今、偽っていると偽る。」*3
 並外れているとともに驚くほど緻密で「薄層状になって」いるような、このような場面の演技は明らかに、このスウェーデン女性がそうであったような偉大な女優を必要とする。だが、私たちはまた、俳優のために、女優のために、彼らが与えることのできるもののために、すなわち、ある役における彼らの「投資」の能力だけでなく、薄層状における消費と緻密さの能力のために、言い換えれば、感情のために書く。
 口が何かを語っている間、手は別のことを語る。耳が聞いている間、手は残酷に話す。『知りすぎた男』のおそらく最も美しいショットは、息子が誘拐されたと電話で知らされた時のジェームズ・スチュアートの手のクローズ・アップである。無意識に彼の手は電話帳のページを機械的に爪で引っ掻き、この身振りは彼の苦悩を表わしている。
 私たちは、あるシーンを書かなくてはならない時、行動中の、あるいは感情にとらえられた登場人物が、おそらく原理的に、言葉によってだけでなく、身体の身振りによって、自己を表現するようにつねに心に留めておかなくてはならない。首に脈打つ血管、額の上の汗の滴、思わず握りしめられる拳・・・。それは、エイゼンシュテインが映画的技術の本質を見たクローズ・アップの技術である。ところでクローズ・アップは、撮影の際に演出家の自発的な決定によって生まれるようなものではない。それは、シナリオの水準において、理論上は、すでに考えられ、記入されていなくてはならない。というのは、クローズ・アップとは、具現化された感情だからである。
 「そこに全体はない。しかしそこでは言葉、視線、身振りの一つ一つに様々な裏がある」とブレッソンは述べている。*4
 おそらくそのために、嘘は、それが言葉の駆け引きや時には仮装用衣装(マリヴォー)になってしまう演劇とは逆に、映画では固有の劇的な価値を持つ。嘘は分割され分断された存在の事実である。すなわち身体の分割によって表現される心の裂け目。そして、映画が登場人物をとらえるのは、この分割においてである。彼が本心を明かさないようにする自制心を持っていること、あるいは、微かなこわばり、多少とも際立った動揺がそれを明かすこと、「嘘をつく男」はカメラ、この無言の証人に適している。
 悪癖、つまり飲酒癖─ストリンドベリの例を残しておくと─に耽っているところを不意打ちされた修道女、それは映画の一場面である。「彼女は自分の姿が見えない」─彼女は「目隠しされて」いる─だが、私たちにはそれが見える。映画はたえず(だが、空しく)、覗き魔が手にいれようと努力するこの特権を私たちに提供する。「彼らが自分の姿が見えない」ときに、隠されているもの、心の内奥、存在の秘密に近づくこと。
 ところで、ある行動が進むのは、そのような不法侵入によってである。別の登場人物によってそのように不意を突かれた修道女が、彼女の秘密が発見されないように、犯罪にまで進んでしまうと仮定してみよう・・・。秘密、嘘と犯罪の関係は数多くのフィクションの原動力である。

美の味わい

美の味わい

映画の理論

映画の理論

*1:エリック・ロメール「トーキー映画のために」『美の味わい』所収、梅本洋一・武田潔訳、勁草書房、四〇頁。

*2:ベラ・バラージュ『映画の理論』、佐々木基一訳、学芸書林、一〇一頁。

*3:同書、八三−八四頁。

*4:前掲書、三四頁。