蓮實重彦とことん日本映画を語る VOL.13

hj3s-kzu2005-12-17

今日のお題は「『祝祭のあとさき』―60年代から70年代への視覚―メロドラマ的なるものの滞留」。配付された資料に蓮實重彦氏の前書きがあるのでまずそれを引用してみよう。

1960年代は、日本映画にとって「変化」の時代であると同時に、「衰退」の時代でもある。1950年代の「黄金時代」を通して増加の一途をたどっていた観客動員数は、1958年に十億人を突破したのを境ににわかに減少傾向をたどり、1961年の新東宝の倒産をかわきりに、映画産業の衰退は顕著なものとなる。1971年の大映の倒産を控えて先の見えない各撮影所は、そのときいかなる題材で観客を惹きつけようとしたのか。昨年12月の「崩壊と変化」(id:hj3s-kzu:20041218)とは別の「抒情性」の回帰という視点から、60年代の日本映画の問題を考えてみたい。

以下は私なりのレジュメ。いつもどおりバイアスがかかっているので悪しからず。

蓮實氏は『スリー・タイムズ』(ホウ・シャオシェン)の最初のショットから涙してしまったという。この三部構成の作品の第二部はサイレントで撮られているのだが、蓮實氏がもっとも感動したというそのパートで、カンヌ映画祭では人がぞろぞろ出ていってしまったという。だからカンヌは信用できないといって済ませることも可能だが、なぜこのような違いが生じるのだろうか。いろいろな人と話した結果、人は優れたショットを見ると泣いてしまうのではないかという暫定的な結論に達したという。
そこでまず最近の映画からショットの強度が際立っている『世界』(ジャ・ジャンクー)の一場面を見てみよう。物語の後半、ある若者が作業中に命を落とし、その両親と親戚の男が田舎から出てくるのだが、その親戚の男が若者の給与(保険金?)の受け取りにサインをする直前、ふと若者の両親を見る表情のクローズアップは凄い。そしてそのあたりからなぜか『東京物語』(小津安二郎)のテーマ曲が静かに流れる。いうまでもなく、ここでの音楽は弔いの音楽である。しかしある程度、映画を見ている人間ならそんなことは誰でも分かるという主張の一方、そんなことを知らなくても映画は楽しめるという主張も他方ではあり、その二つに引き裂かれているのが現代において映画を巡る困難な状況である。ところで80年代から90年代にかけて、外国映画のなかに唐突に日本の唄が流れるという現象が起こり、『動くな、死ね、蘇れ!』(ヴィタリー・カネフスキー)の鮮烈なラストに聞かれる「五木の子守唄」もそうした例のひとつである。こうした「場違いさ」の魅力というものが現代の映画を見る上で重要になってくる。
前置きはこの位で、本題に移ろう。前書きにも書かれているように、1960年代とは、一見「変化」の時代だと思われており、日本映画においても、大島渚吉田喜重をはじめとする新しい映画作家が登場し刷新の気運が起こったのは事実なのだが、その反面、この時代は「メロドラマの回帰」が起こっており、大多数の人々に好まれたのは、悪くいえば退嬰的なそうした「抒情性」であった。そしてメロドラマにおいては、音楽が見るものを「抒情性」のなかに絡めとる重要な機能を果している。まずそうした例をいくつか見ていこう。『愛染かつら』(中村登、1962)では、賀茂川べりを歩く岡田茉莉子とともに主題歌が高らかに響き渡るが、岡田茉莉子の歩調、流麗な移動撮影(キャメラは厚田雄春)、そして編集が相俟って見事な効果を上げている。またこの当時人気だった裕次郎映画からもそうした例を見てみよう。『カサブランカ』(マイケル・カーティス)の翻案である『夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生、1967)のラスト、浅丘ルリ子二谷英明の国外脱出の手助けをした後、石原裕次郎がナイトクラブで主題歌を唄う場面が続くのだが、この屋外から屋内への繋ぎ(暗闇に沈む裕次郎のクローズアップから、急に明るくなるとそこはナイトクラブ!)は見事であり、『カサブランカ』のラストよりも良い。ここでの江崎実生は真剣であり、メロドラマは本気でないと撮れないのである。しかしこの湿った雰囲気は何だろう。かつての裕次郎はもっと乾いていたはずである。『望郷』(ジュリアン・デュヴィヴィエ)のやはり翻案である『赤い波止場』(舛田利雄、1958)で、屋上で陽気に唄う裕次郎は、海の向こうに広がり出す自分の存在を誇示するような若さゆえの無意識の動物性というものを持ち合わせていた。
メロドラマにおける音楽の抒情的な使用は60年代から70年代にかけての「東映やくざ映画」に典型的に見ることができる。まず『兄弟仁義・関東命知らず』(山下耕作、1967)の北島三郎の討入り場面。ここで主題歌の流れるなか敵陣に乗り込んでいく北島三郎は素晴らしい。ちなみに『兄弟仁義・関東兄貴分』(中島貞夫、1967)の彼も素晴らしい。こうした討入り場面の儀式性を極端な形にまで様式化したのが、加藤泰である。『緋牡丹博徒・お竜参上』(加藤泰、1970)での、やはり主題歌が流れる藤純子菅原文太の道行きでは、雪の今戸橋の上で見つめあう二人の瞳のクローズアップの切り返しがあり、彼らが歩くのは霧が立ちこめ遠近法が消失したようなほとんど抽象的な空間である。こうしたモンタージュは、加藤泰が影響を受けたであろう20年代のロシア・フォルマリストたちの流れを汲むものである。このことはマキノ雅弘のハリウッド的な「なめらかさ」と比較してみるとより一層はっきりするだろう。同年に撮られた『昭和残侠伝・死んで貰います』(マキノ雅弘、1970)で、討入りにいく高倉健と彼に縋る藤純子の視線の交錯をマキノはたった一つのミディアム・ショットで処理してしまう。また主題歌の流れるなか、着流しの池部良が奥から登場するさまは縦の構図でゆったりと撮られているが、こうしたセットの経済的な使用もマキノならではである。このように似たような場面を扱っても、その処理の仕方にそれぞれの映画作家の署名を見ることができる。ところが中にはどうしてもこうした場面に主題歌を流すことができずに苦しんだ大作家もいる。内田吐夢がそうである。『人生劇場・飛車角と吉良常』(内田吐夢、1968)で討入りに行く鶴田浩二に追い縋って平手打ちをされる藤純子(またしても!)は、マキノ的な「抒情性」の美学化に抗し、「はしたなさ」の側にいる。ここでの内田吐夢の署名は、別々の道を歩いている二人の足元のクローズアップや、討入りに向う鶴田浩二の背後からのフルショットなどに見ることができるが、彼はここで主題歌を流すようなことはせず(プロデューサーの要望に反して)、音楽はあっさりとしたものにとどめられている。
これら「東映やくざ映画」を「疑似=時代劇」とするならば、「反=時代劇」と呼びうるような新しい流れが出てきたのも、この時代の特徴である。『くノ一忍法』(中島貞夫、1964)のラスト近くで流れる子守唄はもはや抒情性のかけらもなく、その使い方はほとんどブレヒト的な異化作用とも呼びうるものであり、この時点ですでに日本映画にそうしたものが登場している事実は驚くべきことである。あるいは『東京流れ者』(鈴木清順、1966)のラスト。銃撃戦の後、縋りつく松原智恵子に向って「流れ者には女はいらねえ」と捨て台詞を残して去る渡哲也だが、続く場面で階段に立って遠くを見ている彼の姿と夜のネオンのモンタージュに被さる主題歌の使われ方も「抒情性」からは遠く離れている。そして「やくざ映画」は『やくざ絶唱』(増村保造、1970)によって、実質的な死を迎える。近親相姦的な愛情を感じていた妹の大谷直子田村正和に托し、雇われ仕事の殺しに向い、トルコ風呂の浴槽の中で敵の銃弾に倒れ不様に死んでいく勝新太郎は、「やくざ映画」の主人公たちが持っていた抑えられた怒りとか抒情といったものとは一切無縁である。
こうした「やくざ映画の死」の後に生まれたのが『男はつらいよ』シリーズである。第一作『男はつらいよ』(山田洋次、1969)のタイトルバックの渥美清の口上を注意して聞いてみるならば、そこで語られているのが「やくざ映画」数本分のレジュメのようなものであることが分かるだろう(脚本は山田洋次森崎東)。『男はつらいよ』シリーズの物語とは「やくざ映画」が語らなかった裏面(パロディ?)のようなものなのであり、例えば第二作『続・男はつらいよ』(山田洋次、1969)では、渥美清はあっさりと生き別れの母であるミヤコ蝶々に会ってしまうのだ。いうまでもなく「生き別れの母」という主題は「やくざ映画」の大きな主題の一つであり、そこでは通常、主人公は母と離れて暮らさなくてはならない。またテーマ曲が「恩賜の時計をいただいて〜」という曲に酷似していることから、どこか「寅さん映画」と「天皇制」とは深いところで繋がっているように思えてならないそうだ。
さて以上、音楽と「抒情性」との関わりについて論じてきたが、「寅さん」で締めくくるのはあんまりなので、『映画史』(ジャン=リュック・ゴダール)の感動的なカンツォーネが流れるくだり(「偉大なるイタリア映画、偉大なるイタリア映画」)を見て、ゴダールとイタリア映画の関係について思いを馳せながら、今回の講演は終わった。

a)『金薬局の娘たち』(ユ・ヒョンモク)★★★