リンカーン・セオドア・モンロー・アンドリュー・ペリーのために

a)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(青山真治)★★★★
b)『二十歳の死』(アルノー・デプレシャン)★★★
a)曇り空の鈍い光を受け止めた灰色の荒れ狂う海のショットをその波音の轟音とともに目にする瞬間、見るものは何かただならぬ予感に胸騒ぎを覚えるだろう。これから何が起ころうとしているのか。そう思う間もなく、強風で砂埃の立ち込め、到るところに棒杭が刺さっている砂丘のふもとを『ジェリー』(ガス・ヴァン・サント)から抜け出してきたような二人の人影がゆっくりと前進するさまをやや遠景から捉えた横移動のショットがそれに続く。冒頭から鳴り止まない波音やら風音に覆い被さるようにサックスの音がそこに鳴り響く。二人はガスマスクを着けていて、しかも数歩遅れて歩いている方の男は、風よけを付けたマイクを手にしているようだ。二人の進む先には野営用のテントがある。入口付近に血まみれの屍体の足先が見え、二人がテントの中に入って行くと、蠅の音がぶんぶんと聞こえだす。蠅はテーブルの上にある食べ残しに集っている。片方が何か気配を感じ、二段ベッドを囲うカーテンを開けてみると、そこにはライフルで自らの頭を打ち抜いた男の屍体が半身を起こした状態で横たわっている。銃弾はテントの幕を突き破っていて、血で汚れた天幕の穴から空が見える。彼らはなぜ死んだのか。
この答えはまもなく岡田茉莉子の経営するペンションで二人が食事をする場面に流れるラジオ放送によって説明されるが、重要なのはそのことではなく、上述した冒頭の場面があたかも「西部劇」のように演出されていることなのだ。もっとも「西部劇」といっても、某国首相が好きだとかいう『真昼の決闘』(ジンネマン)のようなものを連想してはならない。ここでいう「西部劇」とは、ジョン・フォードハワード・ホークスからロバート・アルドリッチアンソニー・マンニコラス・レイサム・ペキンパーを経由しクリント・イーストウッドと到る真の意味での「西部劇」の系譜である。実際、冒頭の屍体を目にした時、『ワイルド・アパッチ』(アルドリッチ)の陰惨な屍体を思い出さずにいることは難しいだろう。この連想が確信へと到るのは、宮崎あおいを乗せた幌馬車ならぬ救急車の車窓から道路脇の電柱にぶら下がった首吊り屍体を私たちが見る時である。こうした形象をどれだけ私たちは「西部劇」の中で目にしたことか。この車の行く先はゴーストタウンなのだ。
岩場に身を潜めるインディアンたちが巧みに視線を交わす存在であったように、この映画の敵役であるウィルスは、モニターにもっともらしく電子顕微鏡の拡大像が映し出されようと、基本的には不可視の存在である。しかも視覚の劣位を強調するかのように、それらはノイズを餌としているのだ。
主人公の浅野忠信中原昌也が組んでいるバンドの名前が「ステッピン・フェチット」であることも、この映画が「西部劇」の記憶に捧げられているのではないかという推測を逆説的に裏付けてくれる。ステッピン・フェチットとは言うまでもなく、『プリースト判事』、『周遊する蒸気船』、『太陽は光り輝く』といったジョン・フォードの傑作に出演し、あの甲高い素頓狂な声で忘れがたいイメージを残す黒人俳優である。「逆説的に」と述べたのは、興味深いことにここに挙げたフォードの映画がどれも「西部劇」ではないからである。フォード自身があの有名な発言*1にみられるごとく自らを「西部劇」の監督と呼んでいたにも拘わらず、である。
ではなぜ「西部劇」たるこの映画に、「西部劇」以外のフォードの映画の俳優があえて召喚されているのか。それはやはりこの映画が「音」をめぐる映画であることと関係があるだろう。あの黒人俳優の容貌を忘れても、その声を忘れるものがいないように、この映画を見た後、強く印象に焼きつけられるのは、耳をつんざく轟音だからだ。
『赤い河』(ホークス)の葬儀の場面のように雲がゆっくりとその影を落としながら移動する草原に、四方を囲むように設置された巨大アンプの中央に、黒い布で目隠しをされた宮崎あおいを立たせ、浅野忠信がライブ演奏をするシーンは、敢えて言うなら『駅馬車』(フォード)のクライマックスのインディアン襲撃のような映画的興奮がある。耳を塞ぎたくなる誘惑に決して負けてはならない。ノイズに身を開かなくてはならないのだ。なぜなら浅野忠信の手にしているギターはジョン・ウェインのライフルであり、彼が戦っているウィルスは駅馬車に襲いかかるインディアンなのだから。『駅馬車』の件の場面で目を閉じてはならないように、私たちもこの映画で耳を塞いではならない。でないと私たちはみすみす快楽を放棄することになるだろう。もっともその快楽は死と隣り合わせのものなのだから、享楽と呼んだ方が正確なのかもしれない。かつて映画がこのような「音」を持ったことがあっただろうか。浅野忠信がギターを連射しまくった後、何が起こるのか。自分の耳で確かめられたし。また「音」だけでなく、「映像」の素晴らしさでも、この映画は際立っているのだが、そのことはこの映画が映画史上、屈指の美しい雪のシーンを持っていることからも明らかだろう。その雪はいつどのように降るのか。自分の目で確かめられたし。必見!必聴!

(追記)拙文を書いた後で蓮實重彦氏がこの作品について書かれた批評(日経1/27夕刊)を手に入れて読んだのだが、浅野忠信について「西部劇のヒーローを見るように」との一句を忍ばせており、またしても「ああやられた」と思ったのだった。

*1:http://www.mube.jp/pages/milkhall_1.html