太陽

hj3s-kzu2006-03-23

a)『三文オペラ』(ゲオルグ・ヴィルヘルム・パプスト)★★★
b)『恋は終りぬ』(フリッツ・シュルツ)★★★
c)『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ)★★★★
c)燕尾服を着た老人がガラス製のトレーに載せて、すぐ隣の天井の低い洋間にいる人物に食事を運ぶ。その年老いた手は小刻みに震えている。老侍従が給仕したその相手はカメラからは背を向けていて、その前の書きもの机の側には侍従長(佐野史郎)が控えている。カメラが正面からその人物を捉えると、丸眼鏡をかけ、口ひげを生やし、魚のように口を半開きにした間から歯茎のみえる彼の顔が見える。その顔を見た私たちは、この人物についてまだ何も語られていないにも拘わらず、その容貌から彼がヒロヒト(イッセー尾形)その人であることをすぐに察する。
寝台と机の他には家具らしきもののない殺風景なこの洋間に一人ぽつんと座る彼はあまり食欲がなさそうで、チックなのだろうか口元が痙攣的に小刻みに動いている。それは、何か言葉を発しかけているのだが、それが言葉になる前に内部で圧殺されているかのようである。「ラジオをつけて下さい」と彼は侍従長に言い、侍従長はその言葉をおうむ返しに脇に控えている老人に伝える。老人は腰を屈めてしばらく短波ラジオの選局ダイヤルを回してから、米軍放送にチューニングを合わせる。英語のニュースは、沖縄戦で多数の犠牲者が出たことを伝えている。そのニュースに気分を害したのだろうか、彼はすぐにラジオを消させる。「御上」と侍従長が彼に呼びかけ、午後の予定が伝えられる。その予定は一時間刻みで決められていて、御前会議、海洋生物の研究、午睡、書きものとなっている。平服だった彼は軍服に着替える。その上着のボタンを老侍従が一所懸命嵌めようとするのだがなかなか嵌らず、老人はもごもごと何か呟いている。彼は老人の汗ばんだ禿頭を見下ろす。自分の息を嗅ぎ、口が臭いと彼はひとりごちる。
部屋を出ると天井からいくつも工事用ランプが吊り下がり、壁をパイプが這う薄暗い狭い通路に出る。ここで私たちは薄々感じていた事実、つまりここは地下壕の中であり、先ほどの洋間の異様な天井の低さはそのためだったのだということを確認する。通路は迷路のようになっていて、彼は侍従長に付き添われて一室に入る。そこには緊張した面持ちの軍服や正装の男たちが左右に並んで着席しており、彼の言葉を待っている。顔中汗まみれの肥った陸軍大将が壊滅的な戦況を報告し、海軍大将を非難する。彼はそうした場の緊迫した空気を意に介さず、明治天皇御詠歌の講釈を始め、それが終わると席を立つ。彼の言葉は一字一句、二人の側近が同時に書き留めている。
次に彼は白衣に着替え(この映画ではヒロヒトは場面ごとに衣装を変える)、ホルマリン漬けの平家蟹をピンセットで壜から取り出し、それについての説明をそばに控えるおそらくは生物学の教授に書き取らせる。初めはのんびりとした口調で語っていた彼だが、蟹のクローズアップとともに、平家蟹が自分のテリトリーを決して手放さないという一節に差し掛かると、急に何やら呟き始め、うたたねを始めていた教授を怒鳴りつけて起こし、「大東亜戦争の原因」についての弁明を書き取らせ始める。生物学の言説が政治的な言説に地続きに移行する。学者であると同時に陸海軍の統帥権を持つという彼自身の矛盾した存在を反映するかのように。急速に回転し始めた彼の思考は止まらず、研究室を出てもなお通路を歩きながらその言葉を書き留めさせ続ける。最初の場面で、すでに彼の口から発せられた言葉、すなわち自分は現人神ではなく君らと同じ人間だ、という言葉が繰り返される。
午睡の時間に彼は上着を脱ぎ、寝台に横たわる。なかなか寝つけないが、やがて安堵の表情を浮かべて彼は眠りに落ちる。その一部始終を侍従が少し開いたドアの隙間から見ている。ここでの彼の生活は全て彼らに監視されているのだ。眠りに入ったと思ったのも束の間、彼はすぐに悪夢によって目覚める。寝台に腰掛け呆然とした表情の彼のショットに、彼が見たと思われるイメージが繋がれる。大きな海水魚が翼を生やして爆撃機と化し、小魚たちを追い回す。宙を舞う爆撃魚の遥か下の地上では至る所で火の手が上がり、黒煙が空を覆う。
書きものの時間。彼は硯に水をたらして墨をすり、机の上に和紙を置き、文鎮で押さえる。初め和歌を綴り始めるが、より直截的に愛する息子への呼びかけの言葉に変わる。途中で筆を置き、白いアルバム(まさに皇室アルバム)を開いてそれを眺めだす。婚礼の時の写真、国旗を手にした幼いわが子の写真。彼は母親に抱きかかえられた幼子の写真のところでページを繰る手を止め、それに口づけをし、すぐさまハンカチで写真を拭う。次に彼はそれより小さめの黒いアルバムを開く。そこには、ロイドやチャップリンからディートリッヒにいたるハリウッド映画のスターたちのプロマイドが整然と収められている。彼は楽しそうにそれを繰るが、最後のページに挟まれた二枚のヒットラーの写真を見て、暗澹となる。
侍従長がやってきて、彼に着替えてくれるように伝える。彼が玄関を出て、庭を見ると、二人のアメリカ兵が一羽の鶴を掴まえて遊んでいる(ある意味、シュールで素晴らしいシーンである)。彼は米軍の用意したリムジンに乗って進駐軍司令部に運ばれる。その途中、これまで何重にも保護された場所から見ることのできなかったもの、つまり焦土と化した東京を彼は車窓から目にする。悪夢はやはり現実だったのだ。
マッカーサーの元で、彼は無条件降伏を受け入れ、英語で会話をしようとするのだが、日系アメリカ人の通訳から、彼らの言葉で話すと身分が同等になってしまうので、神であるあなたは日本語でお話して下さい、と日本語で諌められる。しかし彼は英語で話すことを選ぶ。だが大東亜戦争の原因について釈明するうち、その言葉はいつしか日本語に変わる。
皇居に戻った彼の許に進駐軍からの贈り物が届けられる。それはハーシーズのチョコレートである。彼は侍従たちにそれを配るが、侍従長がポツリと毒が盛られているかもしれないと言い出す。一同、侍従長の方を見ると、毒味しますと言って一口齧る。味を尋ねられた侍従長は、私はアラレの方が好きですと答えるので、ヒロヒトは手をパチンと叩いて「ハイ、チョコレートおしまい」といってこの場を切り上げる(老侍従が少し残念そうに「え」というのが可笑しい)。
明治天皇が皇居上空で見たと伝えられる「極光」について学者と不条理な問答を交わした後、庭で米軍のカメラマンが彼を写真撮影することになる。最初に出てきた侍従長を彼らはヒロヒトだと誤解しシャッターを切りまくるが、ヒロヒト本人が出てきても彼らは初めそれに気づかない。写真撮影が始まる。三メートル以内に近づかないようにとの侍従長の制止を無視してカメラマンたちはどんどんヒロヒトに近づいていく。薔薇のそばに立つヒロヒトは、その匂いを嗅いだり、シルクハットを片手に持ったりして、まるでチャップリンそっくりの仕草をする(この場面でなぜソクーロフイッセー尾形をキャスティングしたかが分かるだろう)。そして米軍兵から「チャーリー、チャーリー」と呼ばれる始末である。別れ際に彼は通訳に尋ねる、私はあの俳優に似ていますか、と。私は映画を見ないので分かりません、と通訳。私も、と彼は返す。
彼はマッカーサーから夕食に招待される。微妙に噛み合わない会話。彼は葉巻を一本貰い、マッカーサーは顔を近づけて、彼の葉巻から自分の葉巻に火を移す。マッカーサーの吐く紫煙がもろにヒロヒトの顔にかかる。
再び皇居に戻ったヒロヒトは、何かと彼の世話を焼きたがる老侍従の額をピシャリと叩いて追い払い、一人、窓から月明かりの差し込む部屋で、自らの下した決定について自問自答し(テーブルの上に翳された彼の手はまるで降霊術をしているようで、彼の片足は緊張しているかのようにピンと宙に延ばされている)、疲れ果ていつしか眠りに落ちる。それから何時間経ったのだろう。彼の許に皇后(桃井かおり)が避難先から帰ってくる。ここで私たちはこの映画の画面から女性が周到に排されていたことに改めて気づかされる(米軍の中に一瞬、女性兵が混じっていたのを見逃さなかったにしても)。二人きりになると、ヒロヒトはぎこちなく彼女に近づき、彼女の胸に自分の頭を預ける。彼女もまた優しくその頭を撫でる。二人は人間宣言のことを話題にし、彼は作りかけの新しい和歌を詠んだりする。彼の口癖が長い年月の内に伝染したのだろうか、彼女もまた「あっそ」と受け答えをする。子供たちが別室で待っているという彼女の言葉を受け、彼は手を叩いて侍従長を呼ぶ。彼女も一緒に手を叩く。
やってきた侍従長に彼は最後に何げなくこう尋ねる。そういえば私の人間宣言を録音した例の録音技師はどうなったの。自決しました、と侍従長。驚いたヒロヒトはなおも尋ねる。もちろん止めただろうね。「いいえ」。その時、これまで柔和だった皇后の表情が暗澹となり、ヒロヒトに非難めいた眼差しを投げかける。彼は俯いたままである。急いで彼女は彼の手を引き、そそくさと二人は「そこ」(とはつまり「歴史」という舞台なのだろうか)から退場する。まるでチャーリーとポーレット・ゴダードのように。
(残念なことに現在この傑作は日本で公開が難しいとされている。せめて内容だけでもと思い、上に記しておく。なお私は友人から借りた露盤DVDで見たが、英盤も出ている。)