蓮實重彦とことん日本映画を語る VOL.15

hj3s-kzu2006-07-22

本日のお題は「溝口健二を/と愛すること―そして船は行く―」。まず蓮實重彦氏による前書きを以下に引用する。

溝口健二(1898-1956)は、1952年のヴェネツィア国際映画祭に出品された『西鶴一代女』で国際的な舞台に登場し、ロッセリーニジョン・フォードとともに国際賞を受賞、53年54年に『雨月物語』と『山椒大夫』で銀獅子賞に輝き、その国際的な地位を確立する。無声時代の1923年に監督となったこの「古典的」な映画作家にとって、その栄誉はあまりにも遅すぎる時期に訪れたといってよい。同時に、その栄誉は、現役の「古典的」な映画作家はヒッチコックとホークスだけで充分だと思っていた「カイエ・デュ・シネマ」系の「作家主義」路線に大きな衝撃を与えたのである。それが、監督デビュー以来十年もたっていない黒澤明の受賞と溝口健二の受賞との決定的な違いであることを見落とさずにおきたい。黒澤の作品ならすべて見ることができるが、サイレント期から活躍していた溝口の場合は、プリントの存在しない作品の方が遥かに多いのである(それは、例えばジョン・フォードについてもいえることだ)。いま溝口健二を論じることは、見ることのできない作品に対しても有効な視点の設定が不可欠なものとなる。「そして船は行く」として溝口にアプローチする私は、五十本を超える失われた作品の多くの重要な場面に「船」が描かれていると確信している。

本題に入る前に蓮實氏が会場の聴衆に「溝口を十本以上見ている人」と手を挙げさせたところ、驚くべきことに一割に満たなかった(これには正直吃驚した。私は別に愛国者ではないが、やはりこれは映画にとって由々しき事態だと考えるので末尾に参考文献をあげておいた。上記に該当する人はぜひ活用されたし)。溝口を見ないで「愛国者」などと名乗ってはいけない。「日の丸」「君が代」と溝口のどっちが大事だと思っているのだ、と蓮實氏は檄を飛ばす。以下は私なりの要約である。
さて溝口は、小津や成瀬と違ってその特徴を指摘しにくい映画作家である。淀川長治によれば溝口の映画作家としての頂点は1920年代にあるということだが(とりわけ『狂恋の女師匠』(1926))、この時代の作品はほとんど現存しておらず私たちはそれを確認することができない。したがってこれから語られるのは蓮實氏なりの溝口像である。
溝口健二とはどんな映画作家か。一言でいうなら、彼は「船」の作家である。そのことを確認するために『お遊さま』(1951)のラストを見てみよう。田中絹代が大きな池のある別荘で琴を演奏している。それが終わり知人らと談笑していると、検校が赤子の声を聞きつける。側使いの者に探させると庭の隅に手紙とともに赤子が置き去りにされている。それはかつて彼女を愛した義弟の子供だった。妻を亡くした彼は彼女にその子を託したのである。画面に船が現れるのは次の瞬間である。朧月夜に一艘の小舟が音もなく静かに水面を滑っていくさまがロングショットでインサートされる。谷崎潤一郎の原作「蘆刈」では記述されていないこのショットに、溝口の映画作家としての署名を認めることができる。以前「成瀬巳喜男は世界一だ」(id:hj3s-kzu:20050416)だと述べたことがあるが、溝口健二ももちろん世界一の映画作家であり、これが世界一の演出である。この別荘の場面での見事なキャメラワーク(やや斜めから引きぎみに対象をとらえ、徐々にそれに近づいていってから、ふたたびゆるやかに離れていく)に見られるような演出が1950年代当時できたのは溝口健二ヒッチコックだけである。これと同じ画面を『マリアのお雪』(1935)のラストでも見ることができる。敵方の将校を愛してしまった田舎芸者の山田五十鈴は彼を舟で逃がすことにする。「アヴェ・マリア」の旋律が響き渡るなか先ほどとほぼ同じ画面(月、小舟、水面)がロングで挿入され、これら二つの作品を二十年の時を隔てて饗応させる。しかも映画はここで終わらず、画面はふたたびがらんとした室内の中央にぽつんと立つヒロインをとらえ、そこに着物姿にライフル銃を担いで(!)見張りから戻ってきた原駒子が左手からフレームインしてがっくりと膝まづくという充実したロングショットが物語を締めくくる。さらに『瀧の白糸』(1933)を見てみよう。入江たか子が若い恋人たちの駆落ちを手助けする。三人が乗る小舟に寄り添うかたちで移動するキャメラがまず彼らの姿をとらえ、次に陸に上がった入江の肩なめの俯瞰ぎみのロングショットで恋人たちの小舟が遠ざかっていく様子がとらえられる。ここにはサイレントならではの抒情性がある。溝口の作品に出てくるのはこうした小舟ばかりではない。『東京行進曲』(1929)のラストでは、愛した女性が実は腹違いの妹だったことを知り、その愛を諦めるために洋行する主人公が大型客船に乗り込む場面が綿密なショット構成によって描かれる。これに比べると『虞美人草』(1935)のラストでの船の描写はやや象徴的に処理されている。波の荒れ狂う岩場で三宅邦子と決別した夏川大二郎(溝口は切り返しを使わないとの誤解があるが、ここでの二人の対話場面は切り返しで構成されている)は、次の場面では洋上の人となっている。これらの場面の基調音として、そこに別離と締念を感じ取ることができよう。
溝口は室内劇の作家だという誤解がしばしばみられるが、彼はロケーション撮影の名手でもある。『浪華悲歌』(1936)で恋人に会いにいくために山田五十鈴が乗り込む地下鉄の運動感と生々しさ。あるいは『祇園の姉妹』(1936)で山田五十鈴のことを逆恨みする呉服屋の元番頭がやくざと騙り、彼女を乗せるタクシーの場面。移動する車窓から撮られた夜の京都市街やその郊外のショットの生々しさと、おそらくはスクリーンプロセスを使ってセット撮影されたはずの車内の様子(人物の顔の表面を推移する光と影)が見事に編集されてそこに運動感を定着させている。さて今見た移動機関は船以外の例だったが、ふたたび船に戻ってみよう。『元禄忠臣蔵』(1941-42)は戦前の溝口の到達点の一つだが、彼はチャンバラを嫌って討入りの場面を省略してしまった。しかし『宮本武蔵』(1944)では、巌流島の対決はきちんと撮られている。この違いはどこに由来するのか。これを解く鍵が「船」である。おそらく彼は船が撮れることで嬉々として巌流島の対決を演出したのであろう。実際、島に到るまでの洋上の場面はかなり念入りに演出されている。ジョン・フォードが「馬」と戯れたいがために映画を撮っているように、溝口が映画を撮るのは「船」と戯れるためなのだ。『歌磨をめぐる五人の女』(1946)でも思いがけないところに不意に船が出てくる。橋の下の運河に停泊している二艘の小舟で作業をしている二人の人物に、田中絹代が道を尋ねる様子が、やや逆光ぎみの充実したワンショットで撮られている。『わが恋は燃えぬ』(1946)でも女権運動家の三宅邦子を歓迎する土地の人々は船を繰り出し、彼女を接待する。田中絹代と三宅の間でかわされる会話の生硬さが船の運動感によって救われている。こうした終戦直後の(スランプ期といわれている)作品に登場する船を見ると、溝口にとって「船」とは自分自身に立ち返ることのできるようなものだったように思われる。
『わが恋は燃えぬ』を見てもわかるように、「船」は女性の力とも結びつく。『名刀美女丸』(1945)で見事敵討ちを果した山田五十鈴の一行は、続く場面で運河地帯を小舟に乗って緩やかに進むが、彼女は船上で従者の一人に思いを告げる(id:hj3s-kzu:20041013)。そして涙なくしては見られない『残菊物語』(1939)のラスト、死の床の森赫子と船乗り込みをし今まさに栄光の絶頂にある花柳章太郎とがクロスカッティングで提示される。以上、あまり見る機会の少ない戦前の溝口作品を中心に見てきたが、最後に1950年代の充実した作品群において、船がどのように現れているかをざっと見ておこう。『雨月物語』(1952)では、霧の濃いある種抽象化された空間の中、田中絹代の小舟が水面を滑っていくが、そこで瀕死の男が横たわった小舟に遭遇する。あるいは『山椒大夫』(1953)の躍動感漲る編集によって構成された母子生き別れの場面。そしてあまりにも有名な『近松物語』(1954)での長谷川一夫香川京子に秘めた愛を告白する心中未遂の場面。このように溝口の映画では船が重要な機能をはたしている。もちろん船の出てこない作品もある。しかし私たちはそこに行き交う不可視の「船」の運動を感じ取ることができるだろう。
(なお、今回語られた内容は「そして船は行く」という題の論文として溝口シンポジウムのためのカタログに掲載されるとのこと)
(参考文献)
まず読むべきなのは蓮實氏の『映画に目が眩んで 口語篇』所収の二つのテクスト「モダン・ボーイ溝口、日本を再発見」と「社会的な「問題」からではなく、溝口を映画の細部から見つめ直さなければならない」である。淀川長治との対談である前者はとくに溝口健二入門編として優れており、『狂恋の女師匠』をまるまる一本カットごとに説明してダニエル・シュミットを驚嘆させたという淀川長治の語り口の魅力の一端に触れることができる。現存している作品の多くはビデオで見ることができるので、この対談で興味を持った作品(特に1950年代の作品は全て見ることを薦める)などを見てもらいたい。なお蓮實氏が他に溝口について書いたものには、素晴らしい『近松物語』論である「翳りゆく時間のなかで」(季刊「リュミエール」第4号)や『シネマの煽動装置』と『映画狂人万事快調』に一本ずつ載っている小文がある(いずれも重要な指摘を含む)。またジル・ドゥルーズの『シネマ』第一巻は見事な溝口論を含むが、残念ながらまだ邦訳が出ていない(英訳あり)。さらにネットで読める英語文献として、デヴィッド・ボードウェルhttp://www.davidbordwell.net/mizo.htm)やタグ・ギャラガー(http://www.latrobe.edu.au/screeningthepast/firstrelease/fr1201/tgfr13b.htm)のものなどがある。

映画に目が眩んで〈口語篇〉

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映画狂人 シネマの煽動装置

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映画狂人万事快調

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Cinema 1: Movement-Image

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溝口健二 大映作品集Vol.1 1951-1954 [DVD]

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