よくできた宿題、あるいは反復について

a) 『リンゴの皮がむけるまで』(加藤直輝)★
あたりまえのことだが、コピーと反復は違う。反復とはゼロから再び始め、全く新たなものを到来させることである。したがっていくら尊敬する作家のスタイルを真似てみても、そのスタイルを生んだ必然性が自分のものではない以上、それは上っ面のものでしかなく、その作家の「魂」を自分のものとすることはできない(この問題はすでに『ビッグ・リバー』(舩橋淳)に即して論じたので、もう一度じっくり読んでもらいたい。id:hj3s-kzu:20060617)。
映画を見なければ映画は撮れない。これはあたりまえのことである。また映画を撮る人間が映画を見るのは、自分の属する芸術ジャンルに対する最低限の敬意である。この敬意のない人間に映画を撮る資格はない。筒井武文氏の言葉を借りるなら、これは「歴史性を背負う」ということでもある。そして絶えず増していくその重みにできるだけ苦しんだほうがいい。しかし、撮る瞬間には、そんな荷物はきれいさっぱり振り捨てて身軽になるべきだ。でないと目の前にあるものをよく見ることはできないし、周りの物音に耳を澄ますこともできない。背負った荷物のせいでうつむいて何も見えず聞こえなくなるのでは本末転倒だ。おそらくストローブはこうした事態を指してこう言ったのだろう。「リフェランスをもつフィルム、映画がそれ自身の対象となることは、おぞましいことです」。私がこの映画を見て感じたのはこの言葉である。
現在、日本の若い映画批評家の中ではピカイチだと常々思っている藤井仁子氏(「未来」に連載中のスピルバーグ論は必読)がこの作品について論じている文章*1を見る前に読んでいたので、私はある一定の期待を持ってこの作品に臨んだ(そのため仕事を早退したくらいだ)。そして周りの映画好きの連中にも「いい作品に違いないから見ろ」とすすめた。しかし実際に見てみて、正直、失望した。理由は冒頭に述べたようなことである。そして私に付き合ってわざわざ一緒に見てくれた畏友に、上映後、自分の作品でもないのに一言「ゴメン」と謝った。
「暴力」は一瞬にして人と人とをまさに暴力的に結びつける。しかしそれを描くためには加害者の側と被害者の側の両方の立場に身を置いてみなければならない。おそらくこの作家は本当の暴力というものを経験したことがないのだろう(これは『爆撃機の眼』(八坂俊行)にも感じたことだ)。この映画に出てくる少年が行使する暴力、あのようなものは、せいぜいテレビゲームの延長のようなものでしかない。そこには「痛み」が欠けているからだ。したがって、もしこの作家が今後も「暴力」を描いていくつもりなら、一度、被害者の立場に身をおいてみることをすすめる。文字通り「半殺し」の目にあってみることだ(どうでもいい話だが、かなり昔、私は実際にこういう目に会ったことがある。そのおかげで大抵のものは怖くなくなった)。これは本気の忠告である。
さすがに映画をよく研究しているようで、技術的にはかなりのレベルに達している。この点では、私など彼の足元にも及ばない。しかしゴダールがかつてキューブリックを評して言った「よくできた宿題」という感は否めなかった(なおこの映画の動物園のシーンを見て、フレデリック・ワイズマンの名前を想起するのは何かの間違いである)。
この作品は「neofest 2006 夏」で上映されたものだが、最後に同じプログラム内の『温もり』(内田伸輝)について一言。この作家には深い軽蔑しか感じなかった。被写体に対する敬意の欠けた人間の撮った作品に「ドキュメンタリー」を名乗る資格はない。たとえ元恋人を撮るとしても、相手はひとりの他者である。自分の狭い了見(ナレーション)で相手を自分が作り上げた虚像に押し込め、そのイメージを別の他者(観客)に押しつけようとするべきではない。そこには徹底して「出会い」(あるいは「見ること」)が欠けている。見ていて本当にムカッ腹が立った。

*1:http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/JinshiFUJII/ringo.htm