選ばれた瞬間

hj3s-kzu2006-08-06

a)『映画史特別編・選ばれた瞬間』(ジャン=リュック・ゴダール)★★★★
a)この映画でゴダールが試みたのは、一言でいえば、イメージの耐久テストである。映画史における偉大なイメージ群、それらはどこまで劣化に耐え、それでもなお何かをとどめるのか。そもそも『映画史』8部作自体、質の悪いビデオ映像をソースとして構成されていたが、驚くべきことにゴダールはこの作品を再編集するにあたって、それら粗悪な映像ソースに遡ることすらせず、完成板の『映画史』そのものを映像素材としている。このことは『映画史』よりもさらに劣化が進んだ映像や、シャープネスのやや損なわれた字幕によって確認できるだろう。おそらく元の映像素材を探して再構成するには、それら映像断片があまりにも膨大かつ複雑に組み合わされていたためでもあろうが、ゴダールはそれを逆手にとり、これまで誰も試みたことのないようなかたちで、偉大なイメージ群の耐久性能をテストしてみせたのだ。そこに残るのはイメージの痕跡(の痕跡の痕跡…)、あるいは累乗化された痕跡である。最初に登場するイメージ、それは『キング・コング』(クーパー=シュードサック、1933)から抜粋された甲板上でのフェイ・レイのキャメラテストのシーンなのだが、彼女の美貌も風にそよぐ純白のドレスも全ては真っ白に飛んだ背景の中に溶け込んでしまって見ることができない。しかしそこには確かに何かがあったのだ。あるいは『狩人の夜』(ロートン)から抜粋された子供たちがボートで殺人鬼のロバート・ミッチャムの魔手から逃れるシーン。そこで月光に煌めく川面を目にするものは、たとえその映像がいくら荒れていようが、やはりその光の充溢に感嘆し、涙を堪えることはできないだろう。「映画とは何か/何でもない(RIEN)/映画は何を望むか/すべてを/映画に何ができる/何かを」と字幕によって畳み掛けられる問いと答えは、その間に揺り椅子に揺られるジェイムズ・グリーソンの映像が挟み込まれることによってある種のサスペンスを孕み、いやがおうにも切迫感を煽り立てるのだが、この『選ばれた瞬間』が作品全体によって示している通り、映画が望み、映画ができることとは、すなわち何かをとどめておくことに他ならない。それが二度の世界大戦の前では「無(RIEN)」に等しかった映画のせめてものの購いである。火山に飛び込んだドロレス・デル・リオはフィルムの回転とともに何度でも蘇るだろう。